滋賀県所在の遊廓の沿革と概要

 滋賀県の遊廓では、近世には大津に幕府公認の柴屋町(馬場町)があり、客筋は馬持・船頭が多く、四至に大門を構えた30軒規模の遊廓であったという。四宮町・甚七町の料理茶屋街でも遊女を置いたといわれる。長浜では安政年間に妙法寺付近に遊所が栄えるも解放令後は大火により焼失。芸妓の請願により移転再建した。明治7年には全県で7ヶ所の席貸茶屋免許地が指定された。多くは近世に飯盛女が置かれた宿場町と思われるが、彦根城下の袋町は、明治初年に散在する遊女を集住させた遊廓とみられる。安政年間に妙法寺付近に栄えた遊所は、解放令後の長浜大火により焼失するも芸妓の請願により移転再建。明治9年には県税・娼妓貸座敷賦金により駆梅院も設置された。長浜の12の売春業者は、昭和33年には料理店・旅館・芸妓置屋に転廃業した。


 『日本遊廓一覧』(上村行彰著『日本遊里史』春陽堂発行、1929年刊(藤森書店復刻、1982年刊)巻末附録 第一『日本全国遊廓一覧』には、滋賀県の遊廓として、大津市上馬場町、大津市下馬場町、大津市真町、大津市甚七町、栗太郡草津町、甲賀郡水口町、蒲生郡八幡町字池田町、蒲生郡日野町大字日野、神崎郡八日市町大字浜野、犬上郡彦根町大字袋、坂田郡長浜町大字南片の11ヶ所が記載されている。免許地は明治7年の県達で初めて定められ、それ以後、新たな免許地の指定と解除がなされていく。多くの免許地が近世に飯盛女が置かれた宿場町であると思われるが、袋町のように、明治初年に散在する遊女を集住させてできた遊廓もある【表(滋賀県遊廓免許地の変遷)】。

 

1.明治期以前

1)大津

 宿場町として栄え、幕府公認遊廓(『日本歴史地名大系』)であった。

2)長浜

 慶応初年に妙法寺先住の世話で、今の神明神社前に五、六軒の娼楼が建てられたことに始まる(『近江長浜町志』)。一方、安政年間に既に妙法寺付近には遊女や遊女屋があり、幕府の取締りを受けていたという記録もある。妙法寺境内には芝居(歌舞伎)小屋が、門前には料理屋が建ち遊興の場となっており、博打や道具市も行われていたという(『長浜市史 第3巻 町人の時代』)。

 

2.明治・大正・昭和戦前期

[年表]

明治5年10月 「人身売買処置方」:鑑札を受けての自由営業を認め、納税義務を課す。
明治7年2月 「席貸茶屋賦金并ニ免許鑑札料収納規則」「遊女芸妓舞子男芸者賦金并ニ免許鑑札料収納規則」:真町・甚七町・四ノ宮町(明治20年に削除)・八幡町・八日市村・袋町・長浜南片町7ヶ所の免許地を明記する。
明治9年2月 「席貸茶屋賦銭並免許鑑札料取締規則」「遊女芸妓舞子賦銭並免許鑑札料取締規則」:芸娼妓鑑札の種類として芸妓・娼妓・舞子・芸娼兼業を記載する。免許地に上馬場町が加わる。
明治11年4月 「貸座敷営業規則」改正「妓舞子営業規則」改正:免許地に敦賀港4町・小浜港2町が加わる。
明治14年5月 「貸座敷営業規則」改正「娼妓営業規則」「芸妓舞子営業規則」改正:免許地に下馬場町・浜野村ノ内字寺ノ前(統計書には記載されず)が加わり、敦賀港・小浜港は削除される。免許地ごとに組合を立て、取締人を公選することを明記する。
明治22年11月 「貸座敷及娼妓営業取締規則」改正。
明治33年10月 「娼妓取締規則施行細則」、「娼妓健康診断規則」
昭和5年3月 「芸妓及芸妓置屋営業規則」:芸妓置屋=「芸妓ヲ寄寓セシメ其ノ業ヲ為サシムルヲ業トスル者」と記載する。

 

1)大津

 芸娼妓解放令が出されたことから、遊女の廃業が奨励された。明治6年1月付の『滋賀新聞』第7号には、前年11月27日付で県令松田道之が令した大津上馬場町の楼主に対する褒賞の記事が掲載されている。明治7年4月、馬場町では、廃業した遊廓を復興することを請願して許可されている(明治7年4月1日付『滋賀新聞』第86号)。明治16年頃をピークにしてのちは振るわず(明治20年1月6日付『中外電報』)、明治29年の洪水以降は衰えていく。真町では先斗町の舞の師匠で劇場振付師でもある3代目篠塚文三を招き、「琵琶湖踊」という盆踊を試み(明治17年7月28日・8月9日付『京都滋賀新報』)、上馬場では京都から光雲・薄雲・花の香という娼妓を呼んで太夫として披露している(明治20年5月5日付『中外電報』)。四宮は県庁の移転地周辺にあたっていたため、明治21年3月限りで、真町へ移転合併させられた(明治20年9月1日・21年3月3日付『中外電報』)。一方、明治5年3月の京都博覧会開催を機に料理屋・宿屋を建て博覧会客を大津に誘うことが計画され、上・下馬場町の楼主などが社中を結んで出資し、同年2月に開化楼が建てられた。県も援助し、琵琶湖畔の旧代官所跡地に木造三階の建物が建設されたが、飲食料が高額なためか、開店後1年を待たずに廃業し、公宿会社となった。公宿会社とは、訴訟中の者や出張者の定宿とされていたが遊興費強要などの不正行為が問題になっていた公事宿に代わるものである。しかし、経営不振になり、馬場町の復興もあって、明治8年廃業した。(『新修大津市史 5 近代』)
 また、大津には駆梅院が設置された。明治9年7月県立仮駆梅院を大津湊町官舎に開き、駆梅事務と普通の医療を兼ね、その経費は県税及び娼妓貸座敷の賦金で充てた。明治10年4月に鶴浜館、8月に医院と改称し一般医療に併せて駆梅のことを取り扱い、9月には下栄町に移転した。明治12年4月駆梅院を別置し当分医院内で事務を取り扱うこととし、9月大津上馬場町に同院を開設し普通患者と駆梅の治療を分割した。同月医院を松本村に新築移転し、建築中下栄町に仮館を設けた。明治13年4月医院を公立大津病院と改称し、明治14年4月松本村の本院落成により移転を行い、下栄町仮館は閉館した。明治15年6月医院教場を廃してその建築物を上馬場に分離した駆梅院に充用した。駆梅院は明治19年8月警察本部の主管となり、明治20年4月県立松本病院と改称した。昭和3年11月大津市は県の指示により中京町吉田病院経営者吉田孝一、上北国町中野医院経営者中野清治郎、白玉町吉田病院経営者吉田俊夫の3ヶ所に代用花柳病診察所を設置し、昭和4年10月内務大臣より大津市代用花柳病診療所に指定された。最近数年間(本書出版年は昭和17年)この種診療所を利用する者も皆無の状態である。(『大津市史 中』)

2)長浜

 解放令が出された後、遊廓は長浜大火のために焼失するが、芸妓伊藤やゑ が県庁に出願して、妙法寺の境内墓地の内に復興の許可を受けて移転再建した(『近江長浜町志』)。最盛期は大正末から昭和である。

 

3.戦後

[年表]

昭和21年2月 「貸席、芸妓置屋、料理屋、飲食店、カフェー、喫茶店営業取締規」改正「芸妓、酌婦、給仕婦取締規則」:貸座敷を貸席に、娼妓を酌婦に改める。

※滋賀県では特定な地域を指定して認める方法はとらなかったが、従来の遊廓免許地で貸座敷は貸席として営業を続けた(『滋賀県警察史』)。青線地帯(終戦後に新たに集娼地区に形態をなしたもの)は明確な様相を示さなかった(『滋賀県史 昭和編』)。

昭和23年8月 「風俗営業取締法施行条例」
昭和32年4月 滋賀県売春問題協議会:知事の付属機関で、婦人の転落防止・保護更生などを調査審議することを目的にした。
昭和32年7月 売春業者の転廃目標を33年2月末日とした。

※集娼地区:「寿クラブ」「湖楽クラブ」(大津)、「洛東園」(草津)、「近水園」(水口)、「八日市貸席業組合」(八日市)、「鶴翼クラブ」(近江八幡)、「袋町三業組合」(袋町)、「長楽園」(長浜)(『滋賀県史 昭和編』)

 

1)大津

 昭和16年正月の景気を観測した1月8日付の名古屋新聞によると、上柴屋町(上馬場町)・下柴屋町(下馬場町)・真町・甚七町で昨年より3割増しの金が使われた。5月には下柴屋町では組合事務所に「女工授産所」を設け、大阪某軍需工場の下請で防弾チョッキの手内職をはじめた。また、大津ではじめての「婦人警防団」ができ放水演習などを行った。昭和22年の七・五禁令(飲食営業緊急措置令)によって、特殊飲食店街は火の消えたような寂しさにつつまれた。膳所平尾町の伝染病院が市民病院となるが、これには軍政部の意向があったようで、伝染病院にしておくのはもったいないから性病をみるようにしてくれと森田市長に申し入れがあったという。各地の保健所に性病診察係をおき、昭和22(1947)年7月、大津市玉屋町の大津保健所でも、月・水・金曜日午後1時から3時まで花柳病診療所を設置した。(『新大津市史 上』)

2)長浜

 昭和33年2月を売春業者の転廃業目標としたことにより、12の売春業者の内、6軒が料理店に、2軒が旅館に、2軒が芸妓置屋に転業している 。

 

(山田佳美)