岐阜県所在の遊廓の沿革と概要

 

 

 近代の岐阜県には4つの遊廓があった。金津遊廓(現岐阜市)、旭遊廓(現大垣市)、西ヶ原遊廓(現多治見市)、花岡遊廓(現高山市)である。いずれも、明治20年代に設置された遊廓である。明治5年(1872)「芸娼妓解放令」以前の岐阜県域に、公認の遊廓はなかったが、19世紀以降、宿場や城下町に飯盛女や茶汲女をおくことが許可されていた。「芸娼妓解放令」は、飯盛女や茶汲女を「解放」した。その後、遊廓の設置は認められてこなかったが、明治21年(1888)の「娼妓貸座敷取締規則」の制定により、岐阜県でも近代公娼制度が施かれることとなり、4つの遊廓が設置された。

 

  ここでは、明治期の岐阜県の遊所統制を特徴づける芸娼妓解放令への対応を中心に見ていくこととし、あわせて岐阜県に所在した各遊廓の沿革について概要を述べる。

昭和4年(1929)の上村行彰『日本遊里史』付録「日本全国遊廓一覧」によると、岐阜県所在の各遊廓における貸座敷数・娼妓数は以下のようである。

       

        表1 明治期岐阜県所在の遊廓

遊廓名

貸座敷数

娼妓数

金津遊廓(現岐阜市)

54軒

480人

旭遊廓(現大垣市)

18軒

130人

西ヶ原遊廓(現多治見市)

11軒

87人

花岡遊廓(現高山市)

12軒

52人

 

 

 

1. 岐阜県の「芸娼妓解放令」

 近世の岐阜県域に公認の遊廓は置かれなかったが、中山道の各宿場には飯盛女が存在したほか(『岐阜市史』ほか)、幕末の慶応3年(1867)5月には大垣藩は城下に茶汲女をおくことを許可した(『大垣市史 中』1930年)。宿場の状況は明治初年にもつづき、例えば明治4年(1871)の河渡宿には、4軒の旅籠屋に計16人の飯盛女がいた(『岐阜市史 史料編 近代一』782-83頁)。
 芸娼妓解放令をうけて岐阜県では、県内の「娼妓」720人を解放し、遊所を廃止した(『岐阜県史 通史編 近代下』)。岐阜県の遊廓廃止は、当時の岐阜県令長谷部恕連の「英断」とされる。明治14年に建設された長谷部の顕彰碑は、遊廓の廃止を長谷部の業績のひとつとして讃えている。しかし、芸娼妓解放令直後の状況をつたえる直接の史料は現在のところ確認されておらず、岐阜県が芸娼妓解放令にどのように対処したのかは具体的には不明である。しかし、事実として芸娼妓解放令後、明治21(1888)年まで岐阜県内に遊廓は設置されておらず、長谷部と長谷部県政をひきついだ小崎利準によって、芸娼妓解放令後に幾度も展開された遊廓設置運動にもかかわらず、岐阜県において近代公娼制度は長く実施されなかった。
 解放令後、遊廓設置を求める動きを県の対応について見よう。最初の貸座敷営業を求める動きは、明治6年(1873)6月に見られた。厚見郡加納(25人)、本巣郡美江寺(15人)、不破郡赤坂(13人)、同垂井(5人)、同関ヶ原(10人)恵那郡大井(15人)、郡上郡八幡町(3人)、土岐郡大湫(7人)、安八郡大垣(7人)、同墨俣(21人)の岐阜県内各地の宿場町における旅籠屋・料理屋の元営業者たち総勢121人が、当該地の戸長を通じて小崎利準宛に「芸妓」を寄留させ、貸座敷渡世をしたいとの嘆願書を提出した。それに対して小崎は、「芸妓・貸座敷渡世之儀ハ、淫風ヲ導キ不締之事共有之ヲ以、先般御布令ニ依リ解放之後ハ管内一般差止メ置候儀ニ付、書面願之趣ハ難聞届候条、生業ノ目途別段相立可申事(傍点引用者)」として認めなかった。これによれば、芸娼妓解放令後、岐阜県では、「芸妓・貸座敷渡世」は「管内一般差止メ」となっていた。その理由は、芸妓・貸座敷渡世がみだらな風習をひきおこし不取締りであるからである。先に、芸娼妓解放令への岐阜県の対応について直接の史料は見当たらないと述べたが、ここから、芸娼妓解放令後に岐阜県は貸座敷渡世を禁止するなんらかの対応をしていたと推測される。小崎は、その方針を遵守することを改めて表明し、別に生計の目途をたてるよう、申し渡した(岐阜県歴史資料館「自明治七年至明治二十年内記部命令指令内務 第二巻」)。
 明治8年(1875)1月14日、加納町の業者12人と、同じく加納町を住所とする娼妓渡世を願うもと、つるという2人の女性、同じくかま、かねという2人の芸妓渡世を願う女性が連名で、芸妓・娼妓・貸座敷渡世願を県知事小崎に宛てて提出した。しかし県は、同日中にそれを却下した(同前)。
 1月の嘆願書が聞き届けられなかったことうけて、同年2月17日、加納宿の中川藤九郎なる人物を惣代として県内9ケ宿の旅籠屋・料理屋渡世の者たちが、貸座敷営業許可を求めて内務省に直接歎願するという挙に出た。内務省は受取を拒否したが(19日)、中川は引き下がらず、2月20日再び内務省に嘆願書を提出し、却下の理由を文書で示してほしいとくいさがった。手ぶらで帰れば、9ヶ宿の人びとは到底納得しないと考えたからである。しかし、中川の願いむなしく、内務省は、あらためて説諭をくわえて帰郷をうながした。彼は引き下がらざるをえなかった(同前)。
 ところで内務省は、岐阜県に対して中川から提出された一連の嘆願書を下げ渡すとともに、この一件に関する報告を行った。そこで内務省は、貸座敷営業を「無比醜穢之業体ニテ可恥事ニ有之」とし、岐阜県の廃娼の方針を「県下ニ於テ右商業之者モ無之ハ甚美事ト云ヘクシテ、可喜事柄」と高く評価している。このころ内務省は、東京府の性売買統制と安定的な地域運営の方法を模索しており、この文面は内務省の性売買統制に対するこの時点での姿勢をうかがい知るうえで興味深い(同前)。
 明治9年(1876)1月12日、太政官布告1号によって、私娼の密売淫の取締りが地方官に委任されると、岐阜県は同1月20日「売淫罰則」を制定し、違反者への罰則を定めた。同年1月23日には、「密ニ売淫シ或ハ売淫ニ類似スル所業ヲ禁ス」る旨を布達し、「売淫」禁止の徹底と取締り強化の方針を示した(「岐阜県史稿」)。
 以上のように岐阜県は、芸娼妓解放令後に「芸妓・貸座敷渡世」を禁止し、明治10年代までは公娼制度を実施せずにいた。また内務省も岐阜県の方針を支持した。

 

2. 金津遊廓の誕生

 1でみたような、廃娼の方針が大きく揺らいでいくのが、明治10年代である。まず、明治15年(1882)6月、芸妓税が新設され、岐阜県内において芸妓の設置が事実上認められた。明治19年になると、地方財政基盤の強化のために、貸座敷・娼妓の設置を認め、営業税を地方税の一財源とするため、岐阜県会で遊廓設置が議論されるようになる。とりわけ岐阜市では、市区改正事業の一部を遊廓設置による営業税の徴収でまかなおうという声があがるようになる。
 こうした県会の動きに連動してか、遊廓設置をめざす具体的な計画が地域の側からも生じた。のちの金津遊廓設置に結実する計画は、上加納村地内への娼妓館設置の計画である。この計画の立案者は、当時の岐阜市域の有力者たちである。岐阜・今泉・小熊・稲束・上加納の各町村の有志惣代として名を連ねた者のなかには、本島源左衛門・近藤伊三郎・小川汲三郎の「岐阜町の三紳士」をはじめ、渡辺甚吉(十六銀行創始者)・岡本正樹・篠田祐八郎・熊谷孫八郎(県会議員)といった名前が見られた。明治21年(1888)7月30日、彼らは、遊廓からの収益金を市区改正事業の経費にあてることを条件として提示し、小崎利準知事に遊廓の設置を歎願した。遊廓設置予定地とされたのは、上加納村字高巌の内で、大矢富次郎を地主とするおよそ1万4400坪の地所であった(『岐阜市史 史料編 近代一』930頁)。大矢は、「厚見郡上加納村字美園町三丁目の酒造家の二男にて数年前に出京し株式取引の事に大に利を得て当時仲買人と為り居る」人物で、3~4ヶ月前に帰省して、当該地を買得したという(『岐阜日日新聞』明治21年8月14日付、『岐阜市史 史料編 近代一』928頁)。大矢自身もこの「遊廓設置願」の筆頭の願人として名を連ねた(『岐阜市史 史料編 近代一』930頁)。
 これに対して県は、同年8月16日、15年間の期限付きで営業を許可した。その8日後の8月24日、岐阜県は、娼妓貸座敷取締規則を公布した。これにより、岐阜・大垣・高山に遊廓が設置されることとなり(第1条)、翌年には、それに多治見が加わった。娼妓・貸座敷は免許制となり、営業を希望する者は警察へ届け出ることとなった(第6条、第13条)。集娼制度が採用され、娼妓の自由な外出は禁止された(第11条)。定期的な梅毒検診も義務づけられた(第10条)。他方で、芸娼妓解放令が禁止した人身売買的な色彩の強い養女による娼妓営業は禁止された(第7条)。

 

3. 明治・大正・昭和期

 ここでは、娼妓貸座敷取締規則制定後の岐阜県内の遊廓について述べる。

1) 金津遊廓(岐阜市)

 金津遊廓設置の準備は、県による遊廓設置の許可を待たずに進められた。明治21年(1888)8月6日に、「申合規約書」への調印がなされた。遊廓からの利益金2万2000円が上加納村、今泉村、小熊村、岐阜町、稲束村の道路開設と「公益ノ事業」に宛てられることが正式に決定した。8月10日には、実際に2万2000円が支払われたようである(『岐阜市史 史料編 近代一』931-2頁)。明治21年(1888)9月1日からは遊廓の建設がはじまった。廓内1万4000坪は東西2つに区分され、東側の「上等の地所」8500坪を5~6町に町割りし、ここは貸座敷、割烹店、芸妓屋をはじめ各種の営業者の家屋建設予定地とされた。西側の6000坪は、さしあたり「遊園地」とし、そのなかに演劇場、遊技場などを建設する予定であるという。諸営業者は、地所を借り受けるか買い受けるかしなければならないが、いずれにせよ地主と交渉中であるという(『岐阜日日新聞』明治21年9月2日付、『岐阜市史 史料編 近代一』842頁)。なお、『岐阜市史 史料編 近代一』935頁には、明治22年6月20日付の「金津廓全図」が掲載されている。
 遊廓の開業は、明治21年11月5日のことで、翌年5月11、12両日には開業式が盛大に行われた(『岐阜市史 通史編 近代』261頁)。

 

2) 旭遊廓(大垣市)

 大垣における遊廓の設置は、明治21年(1887)の娼妓貸座敷取締規則ですでに認められていたが、大垣において遊廓設置が具体化するのは、明治22年に入ってからのことである。そのとき、遊廓候補地として10ヶ所ほどが出願し、選定は難航した。候補者のうち、大垣の商工会員、水運同盟会員を中心とするグループは、遊廓からの収益金を市区改正事業の経費にあてるとした岐阜の例に倣い、大垣―桑名間の水運強化のための改修工事資金を提供することを条件に、藤江村を候補地とした。こうした経緯から、遊廓候補地は寄付金の多寡による入札に委ねられることとなり、一旦は西長町が遊廓候補地に内定した。ところが、遊廓経営の不安定さと多額の寄付金を用意することの困難さが西長町への遊廓設置を断念させたようである。結局、大垣水運同盟会が推す藤江村が候補地として改めて選定され、明治22年4月1日には、大垣警察署からの許可も得た。同5月、遊廓の名称を旭廓と定めた。しかし、遊廓建設の着工は延引した。その背景には、遊廓建設が予定されていた藤江村の村役場と地主および水運同盟会とのあいだで折りあいがつかない事情があったと当時の新聞(「岐阜日日新聞」明治22年9月25日)は伝えているが、詳細は不明である。
 ともあれ、ようやく9月になって遊廓建設に着工した(「岐阜日日新聞」明治22年9月11日)。『大垣市史 中』は遊廓の開業を明治22年(1888)9月と記しているが、松下哲也氏は、遊廓建設に着工したのがそのころであり、実際の開業は明治22年の末であったことを明らかにしている。年末にはようやく開業の目途がたったとようであるが、年内に開業できる見込みがある貸座敷はようやく3、4軒であったという(「岐阜日日新聞」明治22年12月29日)。開業後の明治23年2月8日付『岐阜日日新聞』は、娼妓はわずか15人ほどで、そのうち営業しているものは10人に過ぎないと報じ、先行きが不安視されていた。
 明治末から昭和初年にかけての旭遊廓は、貸座敷では昭和3年(1928)の19軒、娼妓数では大正4年(1915)の177人をピークに、貸座敷数12~15軒前後、娼妓数120人前後の規模であった(『岐阜県統計書』各年版)。

 

3) 花岡遊廓(大野郡高山町、現高山市)

 高山には、花岡遊廓が設置された。明治21年(1888)12月19日、「烟火を打揚げ且高山町の紳商及郡吏・役場員・銀行・会社員等を招聘」して盛大な開業式が行われた(『岐阜日日新聞』明治21年12月22日付)。明治から大正・昭和にかけての貸座敷数・娼妓数の変遷は表2のとおりである。明治期から大正・昭和期にかけて、貸座敷数はほぼ倍増し、娼妓数はとりわけ昭和期に激増(貸座敷数の漸減にもかかわらず)している。

 

4) 西ヶ原遊廓(多治見町、現多治見市)

 明治21年(1888)に岐阜県が娼妓貸座敷取締規則を公布したとき、貸座敷営業許可地に多治見は含まれていなかった。明治22年(1889)7月、東濃では唯一の町制が多治見にしかれると、さらなる発展のためとして、遊廓設置の計画がもちあがった。多治見町会議員の西浦清七、加藤貫一が、明治22年(1888)8月に岐阜県に提出した遊廓設置願いはすぐに聞き届けられ、県の内定を得た。
 ところが、西浦・加藤の遊廓設置願いは町会の承認を得たものではなかったため、遊廓設置への賛否をめぐって町を二分する争いとなった。町会は、8月24日に臨時会をひらき、遊廓設置問題を協議し、27日、町会は設置反対を決議した。しかし、その前日、県は多治見町東郊の新田地域字西ノ原(現多治見市坂上町あたり)に遊廓設置を正式に許可してしまった。
 加藤文明、富田繁右衛門、水野鶴太郎といった遊廓設置反対派は、町民800余名から署名を集め、9月3日、岐阜県に遊廓設置の指令取消願いを提出した。猶予・取消願いは数度にわたって提出されたが、いずれも却下された。町内では遊廓設置反対の演説会が開催されるなど、反対運動は大いに盛り上がったようであるが、実を結ばなかった。
 遊廓設置が決定すると、名古屋旭廓の貸座敷営業者による支店開業の申し込みが続々とあったという。道路が開削され、翌年にかけて貸座敷の建設が行われた。明治23年(1890)2月には10軒の妓楼が建ち並んだ。
 当初は珍しさもあってか盛況であったが、その後は期待されたほどの集客はなく、不振が続いた。当初10軒あったとされる貸座敷は、明治25年(1892)には7軒にまで減少した。同年、西ノ原遊廓発起人のうちの一人であった西浦清七は、より市街地に近い場所への遊廓の移転を多治見町会に提案し、議決された。移転先は、新羅神社(現多治見市御幸町)の北で、現在の多治見市広小路のあたりである。明治26年(1893)4月9日の開業式を前に、道路を造成し、13軒の貸座敷が軒を並べた。開業式はたいへんな人出となり、廓内は歩くこともままならないほどの混雑ぶりであったという。新遊廓は、旧称を継承して西ノ原遊廓と呼ばれていたが、その後、西ヶ原と通称されるようになった。
 西ヶ原遊廓は、明治32~33年(1899~1900)ごろに最盛期をむかえた。そのころ貸座敷は18軒、娼妓数は100人を上回っていたという。その後、大正・昭和期においては、貸座敷は11~13軒で、娼妓数が100人を超えることはなかった(『岐阜県統計書』各年版)。多治見は陶業が盛んなまちで、客の多くは陶業の職人・職工たちであった(松川次郎『全国遊廓案内』)。明治・大正期の遊廓の盛衰は、陶業界の好不況と密接に関わっていた。
 昭和10年代になると、西ヶ原遊廓もまた戦時体制に組み込まれていった。市域で国防婦人会が結成されると、昭和12年(1937)8月、娼妓たちも弥生連国防婦人会を発足させた。弥生連は、演芸会を開催してその収益金を出征兵士遺家族慰問金として寄付したり、慰問袋を発送したりするなどした。
 戦後は赤線となったが、昭和32年(1957)12月30日、翌年4月1日の売春防止法施行をまたずに西ヶ原遊廓は廃止となった。

 

(文責:人見佐知子)

 

(参考文献)
『大垣市史 中』大垣市役所、1930年。
『岐阜市史 史料編 近代一』岐阜市、1977年。
『岐阜県史 通史編 近代下』岐阜県、1972年。
『岐阜市史 通史編 近代』岐阜市、1981年。
『多治見市史 通史編下』多治見市、1987年。
松下哲也「明治期岐阜県における廃娼と遊廓復活―地方行政と『近代公娼制度』―」『岐阜史学』98号、2001年。
伊藤克司「岐阜町の三紳士と小崎利準知事」(『岐阜史学』82、1991年)