岩手県所在の遊廓の沿革と概要

近世期の岩手県の遊廓・遊所は、盛岡藩領では盛岡城下および城下の近隣村域である津志田(いずれも現盛岡市)、陸中海岸の諸国廻船の寄港地で海上交通の要衝だった鍬ヶ崎湊(現宮古市)に存在したことが分かっている。鍬ヶ崎湊が近世前期から遊所であった一方、城下と津志田の茶屋は文化期以降幕末まで、藩からの公認と制禁を繰り返した。明治以降は盛岡と鍬ヶ崎を含め、延べ20ヶ所が貸座敷営業地に指定された。

 

ここでは、岩手県内に所在した遊廓・遊所について、1近世、2明治以降に時期区分して各時期の遊廓・遊所の概要を説明する。これに加え、「B 詳細情報」として①触・布達年表、②遊廓関係文献・論文リスト、③史料所在情報を作成した。また、参考文献は項目ごとの最後に明記することにした。

「日本遊廓一覧」(上村行彰著『日本遊里史』春陽堂、1929年〔藤森書店復刻、1982年〕巻末附録、第一「日本全国遊廓一」より)には、岩手県所在の遊廓が18ヶ所記載され、このうち旧盛岡藩領は八幡町(盛岡市八幡町)・新田(紫波郡日詰町)・裏町(稗貫郡花巻川口町)・新穀町(和賀群黒沢尻町)・裏町(上閉伊郡遠野町)・沢村(上閉伊郡釜石町)・大須賀(上閉伊郡大槌町)・八幡町(下閉伊郡山田町)・上町(下閉伊郡鍬ヶ崎町)・長峯(二戸郡福岡町)・北館(二戸郡一戸町)の11ヶ所、旧仙台藩領は勝手町(胆沢郡水沢町)・北新町(江刺郡岩谷堂町)・花川戸(西磐井郡山ノ目村)・柿木沢(気仙郡盛町)・鳴取(気仙郡高田町)の5ヶ所、旧八戸藩領は荒町(九戸郡久慈町)・蓮台野(九戸郡軽米町)の2ヶ所である。さしあたり、1近世では、近世の盛岡藩領の遊所について概観し、2明治以降では、県内の明治以降に展開した遊所の沿革について述べる。

 

1、近世
 盛岡藩では、「遊女躰之者召抱渡世商売」は古来より厳重に禁止していたが、城下町のほか郡山(日詰)・花巻といった奥州街道筋でもこうした者がみられたという。文化7年(1810)正月、藩は城下から二里南に離れた津志田に茶屋町を設置するよう命じ、城下の売女・芸者が引き移ったほか、鍬ヶ崎湊(宮古)から売女が呼び寄せられた(鍬ヶ崎については、2明治以降の項目で記述)。その後も、城下ではたびたび売女吟味が行われ津志田の茶屋へ引き渡された。しかし、文政6年(1823)には茶屋女の引き取りが命じられ、同7~8年にかけて津志田の茶屋は取り毀しとなり、その後城下八幡丁などに御免茶屋が設置される。
 文政期に盛岡藩領を旅した芸能者の日記『筆満可勢』によれば、当該期の津志田は茶屋が設置されていた頃に比べれば寂れているものの5、6軒の「遊女屋」が残っており、城下の「芸者払い」時の逃避場になっていたという。また、これら城下の「芸者」は内証であり、実際のところは鍬ヶ崎の売女が出稼ぎで来ていた。「鍬ヶ崎女郎」は「舟頭の洗濯女」と称され、松前船が湊から出帆すると城下などに皆出稼ぎに行ったという。なお、城下の茶屋も弘化期には停止となる。
 嘉永3年(1850)11月、再び津志田に家作が命じられ、八幡丁など城下から34軒が移転している。しかし、安政元年(1854)12月遊女屋は再び制禁となり、検番・遊女屋・貸座敷渡世の者・茶屋構えで客取する料理茶屋・駕篭屋は商売替が命じられた。そして以来、隠売女・芸者渡世は吟味の上重き咎、あるいは諸湊へ追放とされ、津志田が遊所となることはなかった。
※参考文献)武林弘恵「盛岡藩の遊廓をめぐる社会関係について」(『歴史』105、2005年)。

 

2、明治以降
 『岩手県統計書』によれば、岩手県では近代を通じて、延べ20ヶ所の公認された貸座敷営業地(遊廓)があった。そのピークは明治20年代末から30年代前半にかけてと、大正末から昭和初期にかけての時期で、100軒を超える貸座敷と400人を超える娼妓が存在し、日中戦争激化により衰退した。

[年表]
明治5年11月5日  無願の御免茶屋と唱える遊女屋同様の者・料理茶屋渡世の者は一切廃止。
         芸者・酌取・飯盛・洗濯女の類は一切廃止。
明治7年10月22日  遊女ほか飯盛等の所業を一己の存意にて出願する者は芸妓・飯盛の名義にて
                                     稼方 許可(県第185号)。

明治10年5月3日    貸座敷娼妓取締規則の制定(坤第62号)。貸座敷の場所14ヶ所指定。
            盛岡八幡町・花巻・郡山・黒沢尻・水沢・遠野・釜石・浦鍬ヶ崎・軽米・磐井花川戸・
         岩谷堂・山田・大川目・福岡
明治18年2月14日 貸座敷取締規則・娼妓取締規則の改正(甲第9号、甲第18号)。
           郡山・岩谷堂を取消し、氷上を加え13ヶ所とする。
昭和3年11月26日 盛岡八幡町遊廓の移転命令(県令第51号)
昭和3年12月24日 盛岡市菜園の県立農学校跡地を三業地に指定(県令第52号)
昭和4年12月27日 県立農学校跡地の三業地指定取り消し(県訓令乙第49号)
昭和5年11月13日 盛岡八幡町遊廓移転計画の無期延期(県令第24号)
※参考文献)「鍵屋日記」(佐藤勝郎編『津志田遊廓志』所収)、『岩手県警察史』(岩手県警察本部、1957年)、大島晃一「岩手県の公娼制度と廃娼運動」(『岩手県近代史覚書』本の風景社、2002年)。

 1)盛岡
 昭和3年(1928)11月、岩手県最大の盛岡八幡町遊廓を、盛岡市大字東中野字茶畑ならびに同字百目木の通称「さいかち坂」地内に移転するという県による大規模な計画が明らかにされた。県では、さいかち坂を天皇来県と即位の大典記念のグランド建設という名目によって廉価で購入しており、それを一転して遊廓指定地としたことで、県の予算編成にからむ財政上の問題としてクローズアップされた。この予算案は県会本会議で審議され、修正可決されている。同会議のなかでは、廃娼論的立場から、遊廓指定地の売上金をもって予算を組む、そうしなければ新規事業ができないというのは情けないことであるとの質問も出されたが、公娼・遊廓は社会事業であり、遊廓の郊外移転や県による指定地の売却に問題はないと返答されている。しかし、遊廓移転指定地さいかち坂はまったく売れず、県参事会はさいかち坂を小作地として貸し付けることに決定した。その後、県内の廃娼運動の高まりもあり、昭和5年(1930)11月、県は盛岡八幡町遊廓移転計画の無期延期を発表した。
 昭和3年12月、盛岡市菜園の県立農学校跡地が三業地に指定された。翌年から売り出された指定地は売れゆきがよく、6月末には不景気にもかかわらず早くも900坪を売却した。これに対し、矯風会盛岡支部は7月上旬に臨時総会を開催して反対運動に着手、10月には「三業指定地反対婦人同盟会」が組織・発会された。ついで、「三業指定地反対同盟会」も結成されて市会議員をまとめ、12月に開会された臨時市会において反対意見書案が可決、議長名で県知事へ提出された。しかし、県会本会議では指定の方針に変化がなかったため、反対婦人同盟会では陳情書と7660名の署名を持って代表者が上京、県出身者を頼り新渡戸稲造を訪ね内相に取消を願うことを約束させた。ついで、矯風会代表も上京、やはり県出身者を介して新渡戸稲造を訪ね、新渡戸は内相との面会を取り持った。内相から県知事に対し指定の取消を依頼したという。そして、12月に三業地指定が正式に取り消された。
 なお、遊廓移転と三業地指定問題の背景として、県知事丸茂藤平による横領不正が問題化し、丸茂は盛岡地方裁判所に召喚され取り調べも受けている。
※参考文献)大島晃一「岩手県の公娼制度と廃娼運動」(『岩手県近代史覚書』本の風景社、2002年) 

2)鍬ヶ崎(宮古)
 鍬ヶ崎は、寛永年間から昭和30年代までの約300年にわたり続いた、東日本有数の遊所の一つだったという。寛永20年(1643)の記録には「鍬ヶ崎オシャラク」の名がみえ、寛政年間(1789-1801)には「此所諸国廻船輻奏、繁花地也。娼家妓女多数」だったと伝わる。天保年間(1830-1844)の全国船頭による大坂泉堂版『国々湊くらべ』には「南部宮古遊女あり」という記述が、安政年間(1854-1860)には「遊女160人繁昌の地」という記述がみられる。近世の鍬ヶ崎の遊所は、田老方面に通じる唯一の道で、宮古から北へ行く人々が内陸部へ向かう街道のあった日影沢から清水沢沿いの金勢沢一帯にあった。鍬ヶ崎の遊所は、古くは三陸一帯の内陸部との交通の要所に栄えたが、海上交通の発達によって港町として発展し始めた幕末から明治期にかけて、船関係の遊客を目当てにして現在の鍬ヶ崎上町付近に移っていった。
 明治16年(1883)には、鍬ヶ崎上町の海岸付近が貸座敷指定区域に定められ、明治21年(1888)には塩釜―宮古間に定期航路が就航、明治41年(1908)には宮古―塩釜間に三陸定期船が就航した。大正期初めには、鍬ヶ崎花柳界は芸妓54人、娼妓54人、料亭29軒、遊廓12軒、遊芸師匠3人、髪結い3人、湯屋3軒、按摩3人、菓子小売り61軒、行商22人、小間物・荒物業者66人、船大工15人を数えた。大正10年頃、鍬ヶ崎の花街では、芸者屋、遊廓、料亭の三者が並んで廓をつくり、これに函蕃、遊芸師匠、遊女紹介所が協同していた。
 昭和9年(1933)に宮古―盛岡間に山田線が開通して交通の中心が船から汽車へと切り替わったことから、三陸の経済・文化の中心が鍬ヶ崎から宮古へと移り、さらに戦争の激化にともない鍬ヶ崎の遊所は衰退、戦後の混乱の末に姿を消した。
※参考文献)『宮古市史 民俗編上』(宮古市、1994年)。 

3)水沢
 近世末期から明治初年、水沢には袋町(七屋)、柳町、立町等に遊所が散在したという。明治20年(1887)頃、宮下が遊廓地に指定されたが、明治30年(1897)頃には近在に駒形神社・塩釜神社があり神前を冒涜するものとして貸座敷の移転運動が行われ、町はずれの勝手町が新たに指定地となって、明治32、33年頃に移転した。勝手町西方に2軒、北側に3軒があり、別に娼妓検査所があった。
※参考文献)『水沢市史4 近代(上)』(水沢市史刊行会、1985年)。

(文責:武林弘恵)