茨城県所在の遊廓の沿革と概要

 ここでは、茨城県内に所在した遊廓・遊所について、1近世、2明治以降に時期区分して各時期の遊廓・遊所の概要を説明する。
 「日本全国遊廓一覧」(上村行彰著『日本遊里史』春陽堂、1929年〔藤森書店復刻、1982年〕巻末附録、第一「日本全国遊廓一覧」より)には、茨城県所在の遊廓が祝町(東茨城郡礒浜町字祝町)・平潟(多賀郡平潟町)・筑波(筑波郡筑波町)・取手(北相馬郡取手町)・潮来(行方郡潮来町)・横町(猿島郡古河町)・中田(猿島郡新郷村)の7ヶ所記載されている。さしあたり、1近世では、ともに水戸藩領であった祝町・潮来、棚倉藩領であった平潟について概観し、2明治以降では、大正期平潟の貸座敷移転運動について述べる。なお、順次更新の予定である。

 

1、近世

1)祝町
 
祝町の洗濯屋は元禄8年(1695)に水戸藩公認の遊所として成立し、公認以前にも旅籠屋が遊女屋同様の営業を行っていたという。ただし、正徳2年(1712)には家中諸士・領民の祝町旅籠屋への出入りが禁じられている。その後一時期、旅籠屋での売女は禁止されるも、「入津繁盛為」をもって延享4年(1747)には再び藩の公認を得た。やはり、同年・宝暦11年(1761)・寛政元年(1789)と諸士・領民の登楼禁止令が繰り返し出されている。
※参考文献)小林雅子「公娼制の成立と展開」(女性史総合研究会編『日本女性史 第3巻近世』東京大学出版会、1982年)。

 

2)潮来
 
潮来村は水戸藩の飛地に属し、利根川流域に面した在郷町的性格を有する村だった。祝町同様水運の地であり、水戸藩を始めとして奥羽諸藩の蔵米船の出入港、銚子港などからの荷揚物の中継地のほか、鹿島神宮参詣客の逗留地でもあった(小林雅子「公娼制の成立と展開」)。
 「潮来村遊女屋」のはじまりについては、奉行所の問い合わせへの返答のなかで、承応・明和期頃より「奥羽之海船輻湊之地」ゆえ「船宿共酌取女」が置かれていたが、寛文11年(1671)の藩主巡見を契機に8軒が定められて「遊女屋ト唱来候」という(小林雅子「公娼制の成立と展開」)。これと同じことを指すかは不明だが、延宝7年(1679)3月庄屋の関戸利右衛門と年寄の窪谷太右衛門の両名が旅籠屋8軒、飯盛女は1軒につき8、9人宛の許可を出願し、天和元年(1681)6月郡奉行から領内の婦女を召し抱えないこと、生国身元等が分からない者を召し抱えないこと、領内の者を遊興させないことを条件に許可されたとの指摘もある。なお、この8軒の旅籠屋(遊女屋)は、水戸下市の藤柄町の遊女屋を移転したものだったという(大久保錦一『潮来の今昔シリーズ1潮来遊里史と潮来図誌・潮来絶句・潮来節』デザイン・アンド・デベロップメント、1993年)。以来、遊女屋の軒数は6~10軒ほどで変遷した(小林雅子「公娼制の成立と展開」)。
 遊女屋は、遊所が形成されていた浜一丁目に設置された会所に刎銭を上納しており、主として会所の予備金として積み立てられ、女を召し抱える際の補填金のほか、郡奉行の巡見使の饗応にも使われたという。藩に対しては年間20両を上納していた(小林雅子「公娼制の成立と展開」)。
 正徳5年(1715)には遊女85人・子供(禿)26人・客数2万4250人を数え、公認当初の遊女人数は120人ほどでほぼ一定していたが、18世紀後半には70人ほどに減少した。しかし、天保期に入ると遊女屋・遊女・客数とも徐々に増加した。天保11年(1840)の「遊女奉公人々別書上帳」によると、彼女らの出身地は下総が最も多く、常陸(水戸領内出身者は一人もいない)・江戸などが続いた。特に現在の千葉県銚子市周辺の村々の出身者が多かったという。なお、潮来村では遊女の人別帳が別個に作成されていた(小林雅子「公娼制の成立と展開」)。
 潮来には仲茶屋が置かれており、天保12年(1841)には44軒を数えた。遊女屋と仲茶屋は遊女の取り締まり・酒肴勘定・仲茶屋株などに関し議定書を取りかわしている。明治5年(1872)7月の「浜壱丁目商売書上」によると、遊女屋渡世6軒・会所1軒・仲茶屋渡世58軒・その他酒売りなど7軒がみえ、台屋(仕出し屋)を兼業する茶屋が18軒あった(小林雅子「公娼制の成立と展開」)。

 

3)平潟
 
平潟は江戸と奥羽を結ぶ東廻り海運の寄港地として、風待ち、日和待ちの諸国浦々の廻船が出入りした商港であった。平潟に洗濯女と称する実質的な売春婦が存在し始めた時期は明確には分からず、棚倉藩は「平潟之風俗」と認識していた。明和7年(1770)、藩は浦方の締まりになるという観点から、土地の者の願いを認可するかたちで「井戸之入」という場所へ洗濯女を集住させた。平潟の洗濯女は洗濯屋の下女奉公人として抱えられていたが、洗濯屋は寛政元年には5軒、文政期には8軒、天保改革期には一時期廃止されるも弘化期に再興、安政期には6軒が存在した。
 文政13年(1830)には、旅籠屋仲間(洗濯屋のこと)8軒に加えて仲宿仲間43軒が組織され、旅籠屋は実質的な遊女屋の役割を、仲宿は引手茶屋の役割をそれぞれ担い、分業による売春営業を展開して冥加金を負担することで村方の経済的助成を担う存在となった。また、洗濯女の奉公人請状によれば、彼女らは越後出身者がかなり確認され、奥州道中白河宿など周辺の宿場から住替え(転売)してくるケースが多かった。
 天保改革期、幕府は関東地域を対象に売春規制を徹底させたが、平潟の洗濯屋も天保14年(1843)関東取締出役により渡世差し止めを命じられる。村では渡世再興を出願するも、それが聞き届けられたのは江戸においても隠売女取り締まりが緩和される、弘化3年(1846)のことであった。
※参考文献)武林弘恵「近世売春婦における洗濯女の位置―常州平潟湊を中心に―」(『総合女性史研究』30、2013年)。

 

2、明治以降

1)平潟
 
大正10年当時、平潟には11軒の貸座敷が娼妓50人ほどを抱えて営業していた。これに対し、平潟町の青年同志会が貸座敷移転運動をおこした。同志会は、戸別訪問で貸座敷移転を訴え、同町全戸数370戸のうち340戸の同意を得、町長に移転の決議文を提出した。また、『いはらき』新聞をはじめ、『イハラキ時事』・『茨城民友』・『立憲青年』などの月刊雑誌もこの問題を採り上げ、同志会を支持する立場から論説を掲げて運動を支援した。
 移転の主張の理由には、平潟の貸座敷が町の中心部に位置し、一般民家と混在して陸前浜街道の両側にあり、風紀の紊乱が甚だしく花柳病が蔓延していること、漁業能率の低下を憂いて平潟港への寄港を禁止する船主もおり、町の経済にも大きな損害をあたえていることが指摘された。
 しかし、貸座敷業者の影響力が強い町当局は移転に同意しなかった。同志会は知事にも陳情し、知事は警察部長に対し移転を命じた。そして、移転までの猶予期間、風紀上の観点から設けた禁止事項を厳守するよう指導した。それでもこの命令は業者に徹底されず、むしろ警察は同志会に対する干渉を強めたという。
 結果的には、昭和5年(1930)の大不況まで貸座敷は平潟に存続した。
※参考文献)『北茨城市史 下巻』(北茨城市、1987年)。

 

文責:武林弘恵