おことわり

 この用語集は、遊廓社会研究会とその周辺における研究成果にもとづき、日本近世~近代における遊廓・遊所や性売買に関わる用語について解説するものです。用語数は、随時追加していく予定です。また研究の進展などにより、記述内容も随時、閲覧者に断りなく補訂・修正を行っていきます。

 閲覧にあたっては、無断転載を禁止するとともに、歴史用語辞典や国語辞典をはじめとする適切な辞典類の解説も併読されることを強く推奨します。

 


居留地付き遊廓・外国人向け遊廓

きょりゅうちづきゆうかく・がいこくじんむけゆうかく


 幕末の日米和親条約(1854年)、日米通商修好条約(1858年)を含む安政の五ヶ国通商条約の締結に伴う、開市・開港をうけて、幕府は、横浜(港崎遊廓)〔阿部1997〕、箱館〔海保1988・阿部1996〕、江戸(東京、新嶋原遊廓)〔佐賀2010・2013〕、大坂(大阪、松嶋遊廓)〔佐賀2000・2014b〕、兵庫(神戸、福原遊廓)〔人見2007〕などに居留地付き遊廓が新設された。長崎では、すでに近世以来、オランダ人・中国人を対象とする外国人遊廓になっていた丸山・寄合町遊廓がこれに対応する形となった〔松井2010・2013〕。なお、長崎では、稲佐山にもロシア人向けの遊廓がつくられ、横須賀にも、フランス海軍の要請に応え、横須賀海軍製鉄所の付属施設として外国人遊参所(大瀧遊廓)が開設された〔吉田ゆり子2002・2010〕。
 居留地設定以前の安政元~4年(1854~57)の時期における下田でのハリスとの交渉、それをめぐる幕閣の議論を経て、外国人男性と接触が許される日本人女性を遊女に限定するという原則がつくられた。これは、長崎での経験を前提にしつつも、必ずしもその自動適用ではなく、「倭夷之差別」をいかに立てるかをめぐる幕閣の議論を通じて確定されていった。そこでの「倭夷之差別」とは、(a)密貿易の禁止、(b)キリスト教への感化防止、(c)外国人と日本人女性の接触「忌避」を内容としており、この段階で、まずは日本に居住権を認められていない外国人と接触できるのは遊女であるべきという議論が登場した。この原則は、単に遊女の「消費のための性」が利用されたというにとどまらず、外国人と接触するのは、遊女屋に抱えられ、その人別が遊女屋を介して幕府に把握される遊女である必要があり、両者の接触を管理する方法として遊女屋と遊女が利用されたと考えられる。外国人男性と市井の日本人女性との接触を回避しようとした幕府が、外国側の遊歩範囲拡大や商品購入などの要求に対処する過程で、厳密な人別管理のもとで遊女が、廓のように隔離された場所で彼らに「慰安」を提供する「休息所」の仕組みを考案したのである。こうして、上層外国人のための傭妾(ようしょう)の提供と、下層外国人のための「休息所」や外国人向け遊廓(居留地付き遊廓)の設置が必然化していった〔吉田ゆり子2013〕。一方で、こうした議論の中で、老中阿部正弘が、「売女」による「慰安」提供は、外国人の懐柔策としては効果が期待できず、休息所の設置はむしろ現地の風俗を乱すことになると反対した点が注目される。しかし、その後、箱館開港をめぐるハリスと外国奉行の交渉過程で、こうした議論は後景に退き、開市・開港場での外国人向け遊廓設置が、むしろ幕府自身によって、積極的に進められるようになる〔阿部1997〕。
 居留地付き遊廓の歴史的意義としては、三つの点が指摘できる。第一に、居留地付き遊廓の成立自体が江戸(東京)・大坂(大阪)においては、公認遊所を一か所に限定してきた原則の破綻を決定づけるとともに、横浜も含めた新遊廓の開設には既存の遊所が様々な形で関与し、新たな「資本」の参入も伴って遊廓社会の普及・拡大をもたらした〔佐賀2010・2013〕。第二に、居留地付き遊廓が「外交」政策としての意味を持ったことで、検黴制度など近代公娼制の制度的要素をなす仕組みが導入されたことである〔大川2000〕。第三に、居留地付き遊廓が、近世~近代における遊廓社会史のより長期的な文脈のもとで占めた位置も重要である。居留地付き遊廓は、幕府や維新政権の関与のもと各地に建設され、多くはそれが江戸・新吉原遊廓のコピーとしての性格を有した。そのため、茶屋町や見番(検番)、局遊女屋などの経営システムや、「仲之町」を茶屋が立ち並ぶメインストリートとし、周縁部に局遊女屋を配置するなどの社会=空間構造が全国的に「普及」した点に典型的なように、「遊廓社会」の列島への「普及」にあたり重要な役割を果たした。そうした例としては、横浜・港崎遊廓、大阪・松嶋遊廓、東京・新嶋原遊廓などがある。また、居留地付き遊廓以外の吉原システムの普及の典型例としては、甲府の新柳町遊廓〔神田2010〕や、北海道の薄野遊廓〔海保1992〕などの例もある〔佐賀2014a〕。

参考文献

阿部保志「明治五年井上馨の遊女「解放」建議の考察―近代公娼制への志向」(北海道教育大学史学会『史流』36号、1996年)
阿部保志「幕末の遊廓―開港場の成立に関連して―」(『地域史研究はこだて』25号、1997年)
海保洋子「近世北海道における「遊所」の成立と展開」(『歴史評論』456号、1988年、のち同著『近代北方史―アイヌ民族と女性と』(三一書房、1992年)所収)
海保洋子「開拓使の「遊所政策」―「官設」東京楼を中心に」(同『近代北方史―アイヌ民族と女性と』三一書房、1992年)
神田由築「近世・近代移行期における甲府の遊所―宿場から遊廓へ」(都市史研究会『年報都市史17遊廓社会』山川出版社、2010年)
佐賀 朝「近世・近代移行期の都市社会―松嶋遊廓を素材に―」(『歴史評論』599号、2000年、同著『近代大阪の都市社会構造』日本経済評論社、2007年に加筆のうえ収録)
佐賀 朝「明治初年の遊廓社会」(吉田伸之・伊藤毅編『伝統都市4分節構造』東京大学出版会、2010年)
佐賀 朝「居留地付き遊廓の社会構造―東京築地・新嶋原遊廓を素材に―」(『部落問題研究』203号、2013年)
佐賀朝「近世から近代へ 序文」(佐賀朝・吉田伸之編『シリーズ遊廓社会2近世から近代へ』吉川弘文館、2014年a)
佐賀朝「居留地付き遊廓―東京と大阪―」(前掲『シリーズ遊廓社会2』2014年b)
人見佐知子「神戸・福原遊廓の成立と〈近代公娼制度〉」(『日本史研究』第544号、2007年、同著『近代公娼制度の社会史的研究』日本経済評論社、2004年に改稿のうえ収録)
松井洋子「ジェンダーから見る近世日本の対外関係」(荒野泰典ほか編『近世日本の対外関係6近世的世界の成熟』吉川弘文館、2010年)
松井洋子「長崎と丸山遊女―直轄貿易都市の遊廓社会」(佐賀朝・吉田伸之編『シリーズ遊廓社会1三都と地方都市』吉川弘文館、2013年)
吉田ゆり子「外国人遊参所と横須賀」(『市史研究 横須賀』創刊号、2002年2月)
吉田ゆり子「幕末維新期における横須賀大瀧遊廓」(都市史研究会『年報都市史17遊廓社会』山川出版社、2010年)
吉田ゆり子「幕末開港と「倭夷之差別」―外国人向け遊廓成立序説―」(前掲『シリーズ遊廓社会2』2014年)

 


芸娼妓解放令

げいしょうぎかいほうれい


 明治5年(1872)10月2日に出された太政官第295号(当時書き留められた法令文や、明治10年代半ばに編纂された法令全書には「布告」とも「達」とも表記されていない)。あるいは、その直後の10月9日に出された司法省達第22号も含めて「解放令」と総称することもある。太政官第295号は、養女・年季奉公を名目とした芸妓・娼妓への就業と人身拘束を禁止するとともに、その「一切解放」を命じ、借金貸借訴訟は取り上げないと宣言したものであった。また、司法省達22号は、①娼妓・芸妓雇入の資本金は■〔貝偏に「庄」〕金と見なし、全額取り上げる、②娼妓・芸妓らは人身の権利を失った「牛馬に異ならず」、彼女らに貸した金も一切償われないとして、身代金と過去の貸付金の返還要求を無効とする画期的なものであった。司法省達22号は、こうした内容と文言から「牛馬切りほどき令」とも呼ばれている。
 政府においては、明治5年6月から「開化」政策の一環として遊女奉公契約の問題、すなわち、人身売買の問題の検討を開始していた。司法省が「奉公人年期定御布告案」(永年季奉公廃止案)を提案し、同年7月末には井上馨大蔵卿による建議(「穢多ヲ平民ニ列」した措置(賤民廃止令)をふまえ、神奈川県での「ペルー船事件」(マリア=ルス号事件)にも言及のうえ、人身売買厳禁と貸座敷制導入の二つの布告案を提案した)がなされ、同年8月、9月の左院意見(「一切解放」を主張した)を経て、三者の複合という形で芸娼妓解放令は準備された〔大日方1989、阿部1996ほか〕。したがって、解放令は、マリア=ルス号に直面して初めて準備されたものではなかったが、裁判の発生と推移にも刺激されながら、年季奉公人の「一切解放」と借金棒引きという、踏み込んだ内容のものとなった。
 芸娼妓解放令によって、各地の遊廓には大きな混乱がもたらされた。例えば東京府では、解放令の公布を受けて、廃業する遊女(娼妓)が続出し、人主(実親とは限らない)に引き渡されるケースも少なからずあった。また、自分働きの形で営業を継続する娼妓たちも、より条件のよい貸座敷(旧遊女屋)での稼業を求めて移動するなど、様々な形で抵抗や非同調の動きが生じた。そのため廃業に追い込まれた遊女屋も少なくなかった〔横山2011、人見2013〕。
 芸娼妓解放令を受けて、各府県は、「抱え」(人身拘束)を回避した形で遊廓営業の存続をはかる規則を、それぞれ制定した。多くの府県では、娼妓・芸妓稼業を独立した「自分働き」の営業とし、これまでの遊女屋は、娼妓・芸妓に場所を貸す貸座敷業・席貸業とし、規則も別立てとする形を採った。しかし、政府が直接こうした営業を規定する法令を制定せず、その扱いを府県に委任したことを前提に、府県によっては、営業規則をもうけず、「廃娼」に至った府県(群馬県など)や、営業場所の限定が人身拘束につながるとの理解にもとづき、娼妓営業の場所限定をもうけない規則を作成した府県(函館支庁や兵庫県など)もあるなど、その対応はかなり多様であった。
 政府レベルの法令としては、明治33年(1900)に娼妓取締規則が制定されることになったが、芸娼妓解放令は、日本近代を通して効力を持ち続け、自由廃業を求める娼妓たちやその支援者による運動の法的根拠ともなったほか、大正~昭和初年における婦女売買禁止をめぐる国際的な圧力に対しては、内務省が、芸娼妓解放令の存在を「日本に婦女売買が存在しない」根拠とするなど、その後の歴史過程に両義的な影響を与えた。

参考文献

阿部保志「明治五年井上馨の遊女「解放」建議の考察―近代公娼制への志向」(北海道教育大学史学会『史流』36号、1996年)
阿部保志「明治五年横浜における貸座敷制の成立―近代公娼制の成立」(北海道教育大学史学会『史流』37号、1997年)
大日方純夫「日本近代国家の成立と売娼問題―東京府下の動向を中心として―」(東京都立商科短期大学学術研究会『研究論叢』39号、1989年、「売娼問題と警察力」と改題して同著『日本近代国家の成立と警察』校倉書房、1992年に収録)
ダニエル・ボツマン「奴隷制なき自由?―近代日本における「解放」と苦力・遊女・賤民―」(佐賀朝・吉田伸之編『シリーズ遊廓社会2近世から近代へ』吉川弘文館、2014年)
早川紀代「近代公娼制度の成立過程―東京府を中心に―」(同『近代天皇制国家とジェンダー』青木書店、1998年)
人見佐知子「公娼制度の近代転換期」(『部落問題研究』209、2014年7月)
星玲子「北海道における娼妓解放令―函館地方を中心にして」(『歴史評論』491号、1991年)
横山百合子「19世紀都市社会における地域ヘゲモニーの再編―女髪結・遊女の生存と〈解放〉をめぐって―」(『歴史学研究』885、2011年)
横山百合子「芸娼妓解放令と遊女―新吉原「かしく一件」史料の紹介をかねて―」(東京大学日本史学研究室紀要別冊『近世社会史論叢』2013年4月a)

 


娼妓

しょうぎ


 近世以来の遊女が、明治5年(1872)の芸娼妓解放令によって、人身拘束から解き放たれたのちに、自前の営業として従事した性売買営業とその従事者の呼称。「妓」という表現は近世から見られたが、芸娼妓解放令以降には、営業者の名称として娼妓という名称が、府県の規則などで広く使用された。明治33年(1900)の内務省令「娼妓取締規則」により国レベルの法令上の呼称としても定着し、第二次大戦後の昭和21年(1946)1月のGHQによる指令「日本における公娼廃止に関する件」を受けて同年2月に内務省警保局が発した公娼制度廃止に関する通牒と娼妓取締規則廃止命令まで存続した。明治5年以降、娼妓営業を行う者は、多くの場合、本人の真意であることの証明書や、戸主または父兄の同意書を添え、府県(明治10年代からは所轄警察署)に営業申請を行い、営業鑑札の交付を受けた上で、その営業が認められた。営業中は、鑑札の携帯や娼妓営業に伴う納税、週1回など定められた頻度での検黴の受検などが義務づけられ、多くの場合、営業場所も貸座敷営業の免許地に限定され、居住場所も同様、貸座敷営業免許地に限定される場合が少なくなかった。芸娼妓解放令による人身拘束禁止のタテマエにもとづき、貸座敷業者をはじめ他人が廃業を妨げることはできないとされた(自由廃業)が、実際には、娼妓は稼業契約と同時に金銭貸借消費契約を楼主(貸座敷業者)と結び、稼業中も借金が追加されたため、事実上、自由意思による廃業は困難であった。実際、明治30年代に続発した「自由廃業問題」においても、楼主側は、廃業申請に奥印を与えないなど、様々な形で廃業を妨害した。

参考文献

山本俊一『日本公娼史』(中央法規出版、1983年)
早川紀代「近代公娼制度の成立過程―東京府を中心に―」(同『近代天皇制国家とジェンダー』青木書店、1998年)

 


娼妓取締規則

しょうぎとりしまりきそく


 内務省が明治33年(1900)に制定、施行した内務省令第44号のこと。明治30年代に激化し、耳目を集めた「自由廃業問題」を受けて出された。内務省が政府として初めて性売買に関わる営業について規定した法令である。日本近代を通じて類似の法令は出されなかったので、結果として、近代日本国家が政府として性売買営業について規定した唯一の法令となった。明治33年、名古屋旭遊廓の娼妓佐野ふでの自由廃業連署捺印請求訴訟で名古屋地裁は、年期明示のない娼妓稼業契約は民法第90条の公序良俗に反する契約にあたるとの判決を出した(佐野はその後、楼主の説得に応じ請求取り下げた)。また函館の坂井フタによる連署捺印請求訴訟では、大審院が貸座敷業者と娼妓の契約は身体の自由を拘束するものであり明治5年(1872)の芸娼妓解放令に抵触するとの判断を示した。判決後、北海道では、娼妓の廃業届け出が相次ぎ、待遇改善要求も出された。これを受けて、同年10月、内務省は娼妓取締規則を公布した。規則は、15条に及び、娼妓年齢を18歳以上とし、口頭や郵送も含めた廃業届け出を承認すること、娼妓の面接・通信・文書閲覧の自由、金銭貸借帳の保持などを規定し、廃業にあたりこれまで必要とされてきた楼主の連署は廃止されることになった。警視庁と各府県は、これを受けて営業規則をそれぞれ改正した。その結果、東京府では、明治33年の廃業娼妓は618人、翌34年は327人、35年は298人にのぼったという〔早川紀代1998〕。しかし、同年、大審院は、名古屋の大熊きんが起こした貸金請求訴訟において、娼妓稼業による貸金返済を規定した借金貸借契約そのものは民法第90条には反せず、契約は有効(自由廃業をしたとしても貸金の返済義務は消えない)との判決を下した。その結果、以後は、娼妓稼業開始にあたり、稼業契約と金銭消費貸借契約を別々に結ぶケースが一般化し、両者は形式上連動しないとの解釈にもとづき、前借金による娼妓稼業の事実上の強制は、温存されることになったのである。

参考文献

早川紀代「近代公娼制度の成立過程―東京府を中心に―」(同『近代天皇制国家とジェンダー』青木書店、1998年)
星玲子「北海道における娼妓自由廃業―1900年前後を中心に」(『歴史評論』553号、1996年)

 


遊女屋

ゆうじょや


 近世(17世紀~明治5年の芸娼妓解放令公布まで)において、性売買を行う遊女を抱えた営業店舗、またはその経営者を指す。特に、三都や私領などで公認された遊廓で営業する性売買業者を指す言葉として、準公認あるいは黙認・非公認の性売買業者と区別して用いられた。妓楼(ぎろう)、青楼(せいろう)などとも呼ぶ。最も著名な遊廓である江戸の吉原遊廓においては、大見世・交り見世、町並小見世、局見世(局遊女屋)、あるいは大籬(おおまがき)・総籬(そうまがき)、半籬(はんまがき)、小格子(こごうし)などといった区分が遊女屋にはあった。あるいは遊廓内の立地により中下層の遊女屋を、河岸見世(かしみせ)、切見世(きりみせ)などと呼ぶこともあった。こうした区別は、遊廓内での立地、店の規模、抱える遊女数とそのランク、揚代(あげだい)などにもとづくものであった。

参考文献

曽根ひろみ「明治4年「新吉原町規定申合」成立の意義」(『歴史学研究』926号、2014年)
西山松之助編『日本史小百科 遊女』(東京堂出版、1979年)
吉田伸之「新吉原と仮宅」(浅野秀剛・吉田伸之編『浮世絵を読む2歌麿』朝日新聞社、1998年、のち同著『身分的周縁と社会=文化構造』部落問題研究所、2003年に収録)