北海道所在の遊廓の沿革と概要

 北海道の遊廓は、幕末~明治初年の開港・開拓に伴い、箱館(函館)や札幌に初めて公認遊所が成立する点に特徴がある。近世の段階では、自生的・流動的な遊所が松前地域を中心に、限定された範囲で存在したと見られるが、幕末期の箱館の異人休息所を起点として、維新以後は開拓に伴って、各地の湊・港に遊廓ができ、昭和初年までに、じつに50箇所以上もの公認遊廓がつくられるに至った。


 ここでは、北海道内に所在した遊廓・遊所について、①芸娼妓解放令以前、②芸娼妓解放令後~明治・大正・昭和初期、③戦後、の三期の時代区分を設け、各時期の遊廓に関する主要事項を年表形式で示した上で、遊廓の概要を説明する。これとは別に、「B 詳細情報」として史料所在情報、触・布達年表、参考文献・論文一覧を作成した。参考文献引用の箇所には番号をつけ、文献名は最後に明記することにした。同じ文献を再度引用した場合は、(著者名、出版年)で表示した。なお、情報は、今後、随時加筆・修正していく予定である。

 『日本遊廓一覧』(上村行彰著『日本遊里史』春陽堂発行、1929年刊(藤森書店復刻、1982年刊)巻末附録 第一『日本全国遊廓一覧』より(健康診断病院名など一部省略))には、北海道所在の遊廓として51カ所が記載されている。明治期以前に自然発生的に漁場等に出現したとされる遊廓(松前・箱館・江差)、幕末の開港場および明治期北海道で最大の遊廓である函館(「蓬萊町」「台町」「大森町」)、開拓地遊廓(札幌・小樽・根室)、明治後期の師団との関係から設置された遊廓(旭川「中島」遊廓)を中心に遊廓・遊所の沿革を見ていくことにする。

[年表]

慶長4年(1599) 蠣崎氏「松前」を名のる
慶長9年(1604) 松前藩成立。徳川家康によりアイヌ民族との交易を正式に許可
寛政11年(1799) 東蝦夷地を直轄地(第1次)
享和2年(1802) 箱館に奉行所を設置
文化4年(1807) 和人地・西蝦夷が幕府直轄地
文政4年(1821) 蝦夷地の幕府直轄地、松前氏に返還。箱館奉行所を廃止
安政元年(1854) 日米和親条約、ペリー箱館入港、箱館近辺を幕府直轄地に(第2次)
安政2年(1855) 蝦夷地再直轄、箱館奉行再設置
安政3年(1856) 神威岬以北への女性の立入解禁

 渡島半島南部を拠点に蝦夷地を支配していた蠣崎氏は、慶長4年(1599)から「松前」を名のり、慶長9年(1604)に徳川家康によりアイヌ民族との交易を正式に許可された。松前・蝦夷地でのアイヌ民族交易は松前藩の管理下に置かれた。〔海保-1988年〕(2)当時、アイヌ民族と和人の居住地は、「和人地」「蝦夷地」(西蝦夷・東蝦夷)に分離され、松前藩は家臣に対し知行としてアイヌ交易ができる商場の交易権を分与した(商場知行地制)。18Cになると、蝦夷地内で直接交易する主体が松前藩主・家臣から出入りの本州商人へうつり、商人が直接交易を請け負い、藩主に運上金を納める「場所請負制」へと移行していった。
 それにともない、松前領の三湊である松前・箱館・江差は、ニシン漁や昆布などの海産物流通の拠点となっていった。本州との交易により都市として発展していき、遊廓(遊所)の形成にいたったとされる。〔海保-1988年、星-1996年〕(3)ニシン漁の漁場は天明期(1782年ころ)には西海岸に沿って北に移り、集落が形成されるとともに、遊所がつくられていった。同様に、東海岸沿岸部においては、昆布の生産拠点の移動にともない発展していったとされている。〔星-1996年〕
 なおこの時期、まだ神威岬以北への女性の立入は忌避されており、和人女性が通行した可能性は少なく、女人渡海が解禁されたのは安政3年(1856)のことである。〔『北の女性史』-1986年〕
 幕府は寛政11年(1799)に東蝦夷地を直轄地(第1次)とし、享和2年(1802)には箱館に奉行所を設置、ロシア南下政策に備える対策をとった。(和人地・西蝦夷は文化4年(1807)に幕府直轄地となる。)
 文政4年(1821)に幕府が蝦夷地を松前氏に返還。安政元年(1854)ペリーが函館へ来航し、その帰国の翌年安政2年(1855)3月、幕府は蝦夷地を全面直轄し、箱館奉行を再設置した。

 

1.松前

①芸娼妓解放令以前

 天明8年(1788)に松前領内を巡見した古川古松軒は、松前の売女の存在を記述しており、京・大坂・敦賀の出身者の売女が多いため風俗は上方風であると記している。〔海保-1988年〕松前藩は、文化2年(1805)に領内の料理茶屋について、酌取女の衣類・料理・普請の奢多を禁止し、冥加金を上納させ、領内の普請に充てていた。〔海保-1988年〕(『市中取立御役銭御窺書』に松前が幕府領だった時代の様子が記されている。)

a. 第1次幕府直轄地期(享和2年(1802)~)

 松前の幕府直轄地時代は、文化4年(1807)に箱館奉行が福山(松前)に移転し和人地・西蝦夷地も直轄地となった時点から始まる。

b. 松前藩返還期(文政4年(1821)~)

 幕府は、文政4年(1821)に蝦夷地の直轄支配をとりやめ、箱館奉行所を廃止、松前藩が蝦夷地を再支配することとなった。松前藩は天保改革の際の倹約令にもとづき、天保14年(1842)独自の倹約令を出し、奢多を禁じ、茶屋渡世の者の居住地を限定し(蔵町・中河原町の2町)集住させた。公認「遊所」の成立といえる。〔海保-1988年〕同年、隠売女の取締りに関する触を出し、隠売女を禁止。やむを得ない場合は茶屋渡世の者が集住する2町での売女稼業を許可した。新たに隠売女が発覚した場合は、茶屋で三年間酌取女として働くことが科せられた。〔海保-1988年〕

c. 第2次幕府直轄地期(安政元年(1854)~)

②芸娼妓解放令後~明治・大正・昭和初期

③戦後

 

2.箱館

①芸娼妓解放令以前

 箱館は18C後半には漁業・昆布の集荷地として繁栄し海運流通の中心地でもあった。古川古松軒は天明の巡見時、箱館においても売女が多く繁昌していると記述している。〔海保-1988年、星-1996年〕

a. 第1次幕府直轄地期(享和2年(1802)~)

 箱館が幕府直轄地となった翌年の享和3年(1803)、茶屋渡世の者たちが茶屋仲間19軒に限り山之上町での営業を願出、酌取女を置くことが公認された。その後茶屋軒数は増加、文政元年(1818)には、地蔵町築島においても茶屋営業が許可された。〔海保-1988年、函館市史〕

b. 松前藩返還期(文政4年(1821)~)

 箱館奉行所を廃止したところ、箱館の町の繁栄にも影響し、茶屋営業の一部は株を返納したと言われる。〔函館市史〕
 安政元年(1854)のペリー来航にともない、松前藩は箱館市中へ、欧米人婦女子の姿を見せないよう触を出し、「茶屋商売差留」とし警戒にあたった。ペリー一行が去った後、茶屋は再開された。〔海保-1988年〕

c. 第2次幕府直轄地期(安政元年(1854)~慶応3年(1867))

 安政2年(1855)函館奉行再設置後、安政4年(1857)ハリス来航の際、箱館にはアメリカ貿易事務官ライスが居留した。ライスは女性による身辺の世話を奉行所へ依頼し、翌安政5年(1858)1月、山之上料理屋のたまを送ることとなった。前年12月箱館奉行所は、老中へ「異国人え売婦差許の儀ニ付、御内慮相伺候書付」伺書を提出し、箱館に「異国人」対象の遊廓を設置する旨を打診し、老中の即断がくだった。〔阿部-1997年〕
 安政5年1月23日、箱館奉行所は町年寄共に対し、茶屋渡世の者へ売女渡世を申し渡し、増株3株許可、外国人へも女性を差し出すことを命じた。翌安政6年(1859)2月には板塀を回らし、廓内に異人休息所を1か所設置、冥加免除などが申し渡され、山ノ上町に吉原風の遊廓が設置された。廓内の規程証文や異人休息所の規程書が定められた。〔函館市史〕
 文久3年(1863)には、増加した私娼全てを山之上遊女屋の人別に入れ、鶴岡町新築島(豊川町)での営業を認めた。元治年間には新築島を居留地とする計画が持ち上がり、遊女屋たちの火事の際の退去場(新築島内)を召し上げた。大森浜通り(蓬萊町)を退去場代替地としたものの、その後、新築島への居留地設置は実現しなかった。その後、新築島には武蔵野楼・梅川楼などが建ち、山ノ上町と並び繁栄していった。〔函館市史〕
 なお、元治2年(1865)の山ノ上町には、遊女屋25軒、異人揚屋1軒、会所・見番各1、遊女329人、引手茶屋21軒、男芸者5人、女芸者113人が存在したことがわかっている。〔函館市史〕
 しかし、明治4年(1871)9月、山ノ上遊廓は大火に見舞われ、居留地一件の際に代替地とされた大森浜通り(蓬萊町)2万坪に移転することとなった。遊女屋・引手茶屋らは「手薄ノ私共至急ノ家作モ行届不申」ので、移転に1年の猶予を願出たが聞き届けられず、10月には本格的な移転が始まった。〔函館市史〕翌5年春にかけ、引手茶屋・遊女屋へ合わせて16,200円の貸付もあり、蓬萊町遊廓が誕生した。この移転には、遊女屋・引手茶屋を得意先としていた業者も移転願を出し蓬萊町での営業についた。〔函館市史〕(なお、阿部氏は安政4年が山ノ上遊廓の公認で、それまで箱館には公許の遊廓は存在しないとしている。〔阿部-1997年〕)

②芸娼妓解放令後~明治・大正・昭和初期 〔函館市史より〕

【芸娼妓解放令への対応】

 蓬莱町への遊廓移転と時期を同じくして、10月2日、芸娼妓などの年季奉公人の解放を命じた布達(太政官布告第295号)が出され、10月9日司法省令第22号として、芸娼妓と抱え主との間の金銭貸借について芸娼妓に責任はないとした、人身売買禁止と芸娼妓解放を達する布告がだされた。
 北海道開拓使は、人身売買などの諸禁は遵守するが、「娼芸妓解放ノ件ニ限リ姑ク御寛容ノ御沙汰相成度」として正院へ芸娼妓解放を延期したい旨を届け出たが、聞届けられなかった。その間、函館支庁は解放令を積極的に実施しようとしたが、開拓使から布告の達しを見合わせるよう返答があった。
 北海道では明治6年2月(太政官布告の4か月後)に、解放令が布達された。
 北海道開拓使は、解放はするが、北海道は遠隔の地であるため解放されてかえって難渋する者もあるだろうから、営業を希望する者へは許可し、旧主・財主の元に残ることも認めることとし、解放令の実施に消極的な態度を見せた。
 それに対し函館支庁は、解放の趣意に則り芸娼妓たちを身寄りへ送り、正業へ戻るように指導している。解放令布告とともに「解放後法則」・「貸座敷渡世心得」を出し、芸娼妓営業願出の者には鑑札を渡し、遊女屋は貸座敷と称し看板を掲げ、私娼にも鑑札を渡し娼妓と認めた。蓬莱町・豊川町以外でも貸座敷営業を許可し指定地以外でも営業を認めた。
 開拓史は、芸娼妓を解放することよりも、北海道においてはあくまで黙認する道を探ろうとした。函館支庁は他府県同様に解放令の趣旨を全うしようと試みたといえる。

【解放令後】〔函館市史より〕

 女性が自活できる職業が少なかった函館の娼妓たちにとって、函館支庁の娼妓解放の方針は、現実性の乏しいものであった。結果、市中には貸座敷が乱立し、娼妓も各所に散じ、各戸長からは風紀が乱れ困っていると報告があがり、貸座敷営業を蓬莱町・豊川町・台町の3ヶ所に限るよう願いが出された。当時の娼妓数は、蓬莱町199名、台町36名、その他の町129名で、娼妓達が散娼していた様子がうかがえる。〔星-1991〕
 これを受けて明治6年2月27日函館支庁は、蓬莱町・豊川町・台町の3ヶ所を貸座敷営業許可地に指定し、散娼から集娼へとわずか1年あまりで方針転換した。〔函館市史〕
 同年3月、豊川町(新築島)は大火にみまわれた。これを機に、函館支庁は豊川町遊廓を整理するため、貸座敷業を継続したい者は蓬莱町か台町へ移転、転業すれば豊川町へ残ることもできるとした。一方で、貸座敷営業者が増加したため、台町は新規開業不許可とし営業者20軒前後とした。〔函館市史〕
 明治7年(1874)8月「貸座敷渡世規則」・「娼妓規則」・「芸妓規則」、9年8月には「函館貸座敷芸妓娼妓営業規則」(三業規則)が定められ、課税額・等級が明記された。また、貸座敷営業は蓬莱町と台町の2か所と明記、両町とも取締人は戸長とされた。娼妓が正業を希望する場合は、束縛することなく自由廃業を認めたものであった。〔函館市史〕
 この時娼妓廃業を希望していた阿部ハルと、契約完済がないとしてハルの廃業願を拒否した貸座敷主金子リウの一件は、区役所および函館県の判断により廃業願が認められた例である。ただし負債については民事裁判扱いとされ、完全な自由を認められたわけではなかったようだ。
 これを受けて廃業願が続出、明治15年9月、区は貸座敷の保護のため、娼妓の営業・廃業には貸座敷主の連署が必要とし、廃業・鞍替えを悪用する者の取り締まりを警察に一任した。翌16年「娼妓取締規則」において「貸座敷主連署」することを明記した。〔函館市史〕同時に「貸座敷営業取締規則」・「娼妓検黴規則」・「貸座敷娼妓賦金規則」も布達され、貸座敷営業指定地は、蓬萊町・台町と新たに天神町・駒止町が追加され、数ヶ月後には谷地頭も加わった。函館における公娼制度の第二の大きな方針転換時期であったといえよう。
 明治21年(1888)には、北海道全域で共通規則「貸座敷娼妓取締規則」・「芸妓取締規則」が定められ、函館においてもこれをもとに取締りをおこなった。
 函館蓬萊町遊廓丸山楼の抱え娼妓坂井フタは、明治30年(1897)に楼主と娼妓契約をした。ところが借金が減ることはなく、フタは廃業するため楼主に廃業届連印を願い出た。楼主が捺印を拒否したため、フタは函館裁判所に訴訟を起こした。1・2審とも正当な契約とみなされ、廃業届連印を楼主に請求することはできないとの判決であった。これを不服とし、大審院へ上告。明治33年(1900)2月23日、金銭貸借契約と身体拘束契約は別物とし娼妓営業のための身体拘束は「娼妓解放令」に反するとの理由で、フタの勝訴となった。これを機に廃娼運動は盛り上がりを見せ、全国の娼妓たちの自由廃業の契機となった。〔『北の女性史』〕内務省は同年10月2日、「娼妓取締規則」を改正し廃業届に楼主の印は必要なし、とした。自由廃業は全国に広まり、北海道においても規則改正前は2374人いた娼妓が、規則改正翌年には1866人となっている。(ただし全てが自由廃業によるものとはいえない。)楼主側は娼妓の待遇改善などに着手、廃業届出先の警察も楼主側に立つなど、娼妓に圧力をかけて廃業をとどまらせた。明治35年(1905)には大審院が「廃業後も借金返済は残る」と判決を出し、自由廃業はこれを機に急速に衰えた。〔『北の女性史』〕
 芸娼妓の公的支援の場として、明治11年5月には蓬莱町に、6月には台町に女紅場が開設された。将来的に正業につけるように、読み書き・裁縫などを習得できる場として設立された。営業税からの支出による設立であった面もあり、不景気により課税収入が減ると女紅場の経営が悪化すると、明治20年(1887)には全面廃業となった。〔函館市史〕
 明治40年、函館は大火に見舞われ遊廓は大森町にまとめられ、昭和9年にも大火にあっている。
 昭和初期期には私娼やカフェー・バーが増えていった。廃娼運動もさかんとなったが、自由の身となった娼妓は多くはなかったようだ。折からの不況・凶作・不漁により、北海道の農漁村も例外なく疲弊していった。多くの娘たちが家族を救うために身売りされた。〔『北の女性史』〕同様に、私娼では朝鮮人女性が多かったことも特筆されるべき点である。抱主による金銭束縛のため、耐え難い環境下に置かれた様子が、当時の報道から見受けられる。〔函館市史〕
 昭和15年(1930)4月には北海道全体で歓楽街の営業時間短縮がおこなわれ、一斉休業に入っていった。

③戦後 〔函館市史〕より

 戦争の混乱による休業によっても大森遊廓の灯は消えず、戦後昭和20年(1945)10月のアメリカ軍の函館占領により勢いを取り戻すこととなった。政府の「進駐軍関係特殊慰安施設の設営」指示により、函館市も「良家の子女の防波堤」として慰安婦を募集するに至った。当時の新聞には大森遊廓の楼主や湯川・宝来町の旅館などが「接待婦」「芸妓及び接客婦」「慰安接客婦」を急募している広告が多く掲載された。
 昭和21年1月には、GHQにより「公娼制度廃止」命令が出され、政府は娼妓取締規則関係法規を廃止し、たが、街には街娼が増加、特殊飲食店の「赤線地帯」として大森町は存続した。大森遊廓が完全に営業を停止したのは、昭和33年(1958)「売春防止法」成立後のことである。
 函館市役所には、赤線地帯で働いていた婦女子の援護のため、婦人相談所を設置、その後「婦人相談函館職親会」が、生活のため売春を余儀なくされた女性の就業斡旋のため、昭和45年(1970)4月に設置された。

 

3.江差

①芸娼妓解放令以前

 公許遊廓の設置は弘化2年(1845)。〔海保-1988年、星-1996年〕

 

4.札幌

①芸娼妓解放令以前(とくに記載のないものは『新札幌市史』による)

 北海道西部においても「売女小屋」が自然発生的に存在した。これらの「売女小屋」を認めるかたちで、開拓使は明治3年(1870)10月に西部各郡の本陣・通行屋に対し「飯盛女」を抱え置くことを許可した。2ヵ月後には、本府建設にともない、西部各郡には「隠売女」は一切認めず小樽にのみ「遊女屋」を認め、他は「旅店」に「飯盛女」を置くことを認めることになった。
 すでに秋田屋・○八旅館の2軒が飯盛女を置いて営業していた札幌では、明治4年(1871)には本庁舎・諸官衙の建設による人夫や商人の増加にともない、売女営業の店が6軒に増加した。
 開拓使は同年7月23日には、2丁四方の4区画に遊廓予定地を設置し、名称を「薄野」、入廓する売女屋を「旅籠屋」と称呼することを決めた。4ヵ月後の11月には、13軒以上の売女屋が存在していた。官主導で土地割渡・家作料貸与をおこなった「開拓地遊廓」である。
 事後報告となったが太政官へ薄野遊廓の「公然売女」を申請したのは、明治5年(1872)1月22日である。開拓使は薄野遊廓内の「旅籠屋」(売女屋)を「遊女屋」と名乗ることとし、「公然売女」を公認したのである。
 同年4月には開拓判官岩村通俊は一大妓楼の建設を目指し、妓楼建設費1万円を(その後2万円に引き上げ)開拓使予算の中に位置づけた。開拓使東京出張所では、薄野遊廓へ出店を希望する松本弥左衛門・城戸弥三郎(東京品川で遊女屋経営)に6000円の支度金を貸与し、遊女・芸妓等を連れ札幌に入った。このため、岩村判官が予定していた2万円は別の予算へ切り替えられた。更に、松本・城戸の遊女屋「東京楼」は営繕費を追加拝借し、計約1万円の拝借で7か年賦での返済で大妓楼を建設した。

②芸娼妓解放令後~明治・大正・昭和初期(とくに記載のないものは『新札幌市史』による)

 開拓使遊廓のシンボル的妓楼である「東京楼」が開業して1ヶ月と経たない10月2日に、太政官により人身売買禁止の布告がだされ芸娼妓を解放する命が下った。開拓使側としては、北海道内は特別という意識があり、「芸娼妓解放令」の北海道内施行を見合わせる旨、太政官に打診した。「開拓使のみ例外を認めるわけにはいかない」という回答により、翌年1月に札幌本庁へ布達された。
 開拓使による解放令の解釈は営業主側に立ったもので、娼妓と営業主の間の貸借関係は相対和談・年賦返済などと解放令の趣旨を骨抜きにしたものだった。
 東京楼では開業すぐに暴行事件が起こり2ヶ月間休業することになった。その後営業成績は回復するものの、明治6年後半には札幌本府の建設ラッシュもひと段落し工事関係者が激減したことにより、拝借金の返済が滞るようになり、明治9年(1876)には「官設」東京楼は廃業した。返済金額7693円90銭9厘は棒引きとなった。
 明治6年(1873)2月、「芸娼妓貸座敷渡世規則」が定められ、芸娼妓や貸座敷に関する規則類が矢継ぎ早に達せられた。芸娼妓は貸座敷業者の管理下におかれ、芸妓と娼妓の業態の区別、娼妓の検楳制度、営業免許鑑札制度、税金について定められた。芸妓税は地方税に、娼妓税と貸座敷営業税は、賦金と言われ内務・大蔵省へ届出が必要とされた地方税であった。娼妓の税金は国家財政に組み込まれていたのである。なお、明治11年北海道全体で見ると、芸妓・娼妓・貸座敷三業の税金を合計すると、地方税の80%を占めた。〔海保―「開拓使の「遊所」政策―「官設」東京楼を中心に」1992〕
 札幌における札幌薄野遊廓での貸座敷・芸妓・娼妓数は、明治32年(1899)に至るまで増加していき、明治30年には娼妓の数は307人、貸座敷数40軒となっている。
 明治21年で薄野遊廓には貸座敷15軒、芸妓46人、娼妓123人、明治32年にはそれぞれ39軒、77人、297人と増加の一途をたどっている。公証制度が拡大強化されていったといえよう。
 明治20年代の札幌区では密売淫が問題となった。私娼が公娼の2倍存在したと言われ、明治22年(1889)6月には、風俗の乱れを危惧して狸小路の飲食店と薄野の貸座敷の移転を提案した投書が掲載された。候補地は中嶋遊園地近隣であった。
 これを機に札幌でも廃娼運動がさかんとなり、明治25年(1892)には私娼を摘発、正業につくか公娼となるかを選択させた。翌年狸小路の飲食店20軒余りを薄野遊廓内に移転させ、三等貸座敷として公娼化した。公娼が60人も増加したという。
 明治20年代前半には北海道学友会・札幌仏教青年会・札幌基督教会メンバーによる北海禁酒会といった結社集会において廃娼問題を議題に掲げその可否をとりあげ、また政談演説会に「廃娼の可否」をとりあげようとした。(実際には政談演説会が弁士中止や時間切れで廃娼の討論には至らなかった。)このような動きは、日清戦争後の「遊廓移転論」へと移行していく。
 明治25年(1892)段階で貸座敷26軒、娼妓196人であったが、日露戦後の明治30年(1897)には貸座敷40軒、芸妓98人、娼妓307人に増加、世論は「廃娼」ではなく「遊廓移転論」へと傾いていった。明治32年(1899)4月に政談演説会で田尻稲堂が移転論をとりあげた翌年、区会で移転建議の可決に至った。実際に移転(白石遊廓)が実現するのは、大正9年(1920)である。
 大正7年(1918)に薄野近くの中島公園で北海道博覧会が開催された関係もあり、移転問題が現実性を帯び、リンゴ園の白石村が遊廓移転地として名乗りを上げ、大正9年に白石遊廓が開業した。当時貸座敷30軒あまりあったという。〔白石遊廓跡地看板より〕

③戦後

 戦後の進駐軍を相手にする慰安婦の募集は、札幌でも例外なくおこなわれ、白石遊廓もその役割を担った。
 その後の白石遊廓・薄野については未見であるが、昭和33年(1958)の売春防止法により白石遊廓は消滅、昭和41年(1966)の風俗営業等取締施行条例により、薄野の一画においてのみ、個室付き浴場(ソープランド)が認可され、その数は急激に増加した。昭和60年(1985)改正風営法により、営業時間の規制・全道での新規開店が禁止され、ソープランド増加の抑制となった。〔『北の女性史』〕

5.小樽

 

6.根室

 

7.旭川

 永山屯田兵村・東旭川屯田兵村の建設により従事する人夫が増加し、それにともない盛り場に私娼が集まってきた。明治30年(1897)8月に曙遊廓設置が許可され、翌年から営業が開始された。明治33年(1900)には、開新楼・新勢楼・文明楼・三盤楼・北越楼・月見楼・金盛楼・青柳楼・近江楼・五岳楼という貸座敷があり、開新楼は一等貸座敷といわれ、青柳楼は旭川初の三階建てと言われている。〔『日本歴史地名体系』〕
 旭川市街地に第七師団の兵舎が建設され、明治35年(1902)にはすべての部隊が移駐、師団近辺には私娼営業の飲食店30軒余・私娼100名余りが現れたという。〔松下-2013年、以降出典の記載のないものはすべて松下著書による。〕
 この軍隊の誘致を契機に、旭川警察署では永山村牛別の地に新遊廓建設が浮上した。兵営から曙遊廓が距離があること、兵士に性病が蔓延することや曙遊廓の立地が浸水被害を受けやすいということが背景にあったとされる。第七師団が日露戦争へ動員されたため、戦後の明治39年(1906)になって遊廓新設が問題となった。
 それまで旭川町会の反対があったため、北海道庁長官薗田安賢在任中は新遊廓建設は不許可となっていたが、後任の河島醇長官が就任した明治40年(1907)、貸座敷免許地を永山村に指定し新遊廓「中島遊廓」を認可した。
反対者側からは、中島遊廓近辺には高等小学校や上川中学校があり高等女学校の建設予定地もあるということ、さらに旭川町域外に新遊廓が建設されると、旭川町経済に影をおとすことになると反発を買ったようだ。反対同盟会から遊廓変更期成会と名称を改めた反対論側は、経済問題と教育問題に有害であるとし、兵営からの距離は中島遊廓とかわらない町域内での曙遊廓の移転を訴えた。町域内移転は、貸座敷への課税収入を失わないようにするためと思われる。
 新遊廓建設反対を訴えるため上京した旭川町長奥田千春は、東京毎日新聞に訴えかけ、東京で矯風会演説が開かれるなど波紋を呼んだが、現地での状況は変わらず、曙遊廓・中島遊廓(新設)の2ヶ所が存在することになった。
 大正12年(1923)で、曙遊廓の戸数9軒・娼妓60人、中島遊廓の戸数28軒・娼妓164人。駆梅院では、土日に兵士らが来るのに備え、金曜日に娼妓の検診がおこなわれたらしい。〔以上、松下-2013年より〕
 曙遊廓は、兵営からの距離があったため客足が遠のき、昭和10年(1935)頃には閉鎖された。〔『日本歴史地名体系』〕

(佐藤敦子)

*参考文献

(1) 『北の女性史』(札幌女性史研究会編、北海道新聞社、1986年)
(2) 『函館市史』通説編第2巻(函館市史編さん室、1990年)、通説編第3巻(1997年)
(3) 『新札幌市史』第2巻通史2(札幌市教育委員会、1991年)
(4) 海保洋子「近世北海道における「遊所」の成立と展開-松前和人地の三湊を中心に-」(『歴史評論』№456、1988年、のち『近代北方史-アイヌ民族と女性と』(三一書房、1992年)所収。)
(5) 海保洋子「開拓使の「遊所」政策―「官設」東京楼を中心に」(『近代北方史―アイヌ民族と女性と』、三一書房、1992年)
(6) 星玲子「北海道における芸娼妓解放令―函館地方を中心にして―」(『歴史評論』№491、1991年)
(7) 星玲子「北海道における娼妓自由廃業」(『歴史評論』№553、1996年)
(8) 阿部保志「幕末の遊廓-開港場の成立に関連して-」(『地域史研究はこだて』№25、1997年)
(9) 阿部保志「近世から近代に至る北海道における「遊郭」・「遊女屋」の変遷―内国植民地における売春業の特質―」発表レジュメ(2013年9月19日遊廓社会現地研究会(札幌)での報告)
(10) 谷口笙子「函館における公娼制度と廃娼運動―明治期を中心に―」(『北海道の研究6』近・現代編Ⅱ、清文堂、1983年)
(11) 『シリーズ遊廓社会』1、2(吉川弘文館、2013年、2014年)
(12) 松下孝昭『軍隊を誘致せよ 陸海軍と都市形成』(吉川弘文館、2013年)