高知県所在の遊廓の沿革と概要

 

近代における高知の遊所について

■概要

 ここでは、主として高知市における近代の芸娼妓営業地について述べる。

 大正9(1920)年刊行『高知市誌』に付属する市街図には、市の西南部に位置する旭村の、鏡川と本町筋に挟まれた地域に「玉水新地」の名が確認できる。玉水新地は、昭和5(1930)年刊行の『全国遊廓案内』(日本遊覧社編著)にも高知線旭駅近辺の石井町を所在地とする遊廓として記載されている。この地域は市内を東西に流れる鏡川の旧土手道であった。『全国遊廓案内』は玉水新地について、明治5(1872)年に許可を得て営業を開始した遊廓であると述べ、貸座敷27軒、娼妓224名を計上している。同地では「居稼ぎ制」と呼ばれる方式が採用されていた(同書には芸妓本位の遊廓が採る「送り込花制」に対して、「居稼ぎ制」を採る遊廓は娼妓本位の地域であるとの註がある、p.3)。
 前述の高知市街図にはもう一つ、浦戸湾に流れ込む鏡川の河口と堤防を隔てた埋立地に「稲荷新地」という名を確認できる。『全国遊廓案内』には記載がないが、大正15(1926)年に高知市で生まれ、芸娼妓紹介業を営む家に育った作家・宮尾登美子は、エッセイ集『生きてゆく力』のなかで、高知市の海岸通りにあった得月楼と呼ばれる貸座敷の裏側に多くの貸座敷が集まり、稲荷新地と呼ばれる遊廓を形成していたと述懐している。昭和10(1935)年の稲荷新地を舞台にした宮尾の小説『陽暉楼』では、検番制度が成立しておらず、料理屋がお茶屋・待合を兼業していた当時の高知市内における貸座敷の営業形態が描かれた。

 

■戦後の営業

 この稲荷新地は、太平洋戦争中に空襲により消失し、南播磨屋町(現はりまや橋の南部)に多くの料亭が移転した。これにともない、芸娼妓の営業地域も同地に移動したとみられる。聞き取りによれば、主だった料亭は現在の高知公園内で占領軍用の飲食店を営んだという。他方で玉水新地は消失を免れ、売春防止法(昭和33年施行)までは赤線地帯として営業を続けた。その後の高知県における芸妓らの統制については次に述べる。

 

■風俗営業等取締法(昭和33年施行)後の営業形態について

・風俗営業等取締法の施行などに関する条例(昭和34年3月25日高知県条例第9号)

風俗営業等取締法の施行を受けて、高知県は同条例をもって、関連する業態を第一号から第六号までに分類した。このうち芸妓・娼妓または類似の営業にかかわるのは第二号である。第二号に属するものは、(イ)料理店、(ロ)料てい(原文ママ)、(ハ)カフェー、(ニ)簡易料理店である。同条例では、このうち「料理店」を「主として和風設備の客室を設けて、客席で客の接待をして客に飲食をさせるもの」と定義し、そのなかでも特に「芸ぎその他遊芸人をあつせん又は招致するもの」を、「料てい」とした。
 高知県は、この条例をもって芸妓を法的に定義しているという点で特徴的である。すなわち、(ロ)料ていの項で、「芸ぎ」について「主として和風の歌舞音曲により客の接待を業とする者で高知県公安委員会」(以下「公安委員会」という。)が風俗の保持上支障がないと認める機関に登録されたもの」と記載されている。この時点の高知県において、少なくとも法令上は芸妓の営業先が一部の料亭に限られていた。ここではお茶屋や待合といった用語は用いられていない。
 この条例が施行された後、昭和39(1959)年に刊行された『高知市内細地図』では、本丁筋を東西に走る土佐電鉄と鏡川に挟まれて設けられた用水路沿いに玉水町という地名を確認できる。縦に長細く区切られた区画の中には、『全国遊廓案内』に貸座敷として掲載されていた屋号もある。本町筋を挟んだ北側には大小の製紙工場があり、これらの工場の労働者を主たる客層として、料理屋や料亭に業種を変えて営業していた可能性も考えられる。

・風俗営業等取締法の施行等に関する条例の一部を改正する条例(昭和41年11月19日高知県条例第42号)

高知県において、風俗営業等取締法の取り締まり対象から料亭および芸妓が外れるのは昭和41年のことである。同条例では第二号に属する業態から「料てい」と「簡易料理店」を削除し、(イ)料理店と(ロ)カフェーのみに限定した(なお両者は、主として和風の客室を用いるか、洋風のものか、という点によって区分される)。

 この条例以後も、南播磨屋町では芸妓の営業が存続していた。芸妓には検番抱え、料亭抱えの二種類があったという。昭和57年までに検番が廃止されたため、検番抱えの芸妓はいなくなり、芸妓はすべて料亭抱えとなった。これらの料亭は平成に入った頃から廃業が相次ぎ、2013年現在、芸妓を雇用している料亭は得月楼と濱長のみである。
 他方、玉水新地においては、昭和42(1966)年の住宅地図上で条例施行前と同じ屋号を用いて旅館などを営む家を数軒確認できるものの、空き地となった画地も散見されるため、遊興地としては徐々に衰退していったものと推測される。

 

(文責:松田有紀子)

 

■参考文献、史料

・高知県公報(高知市立図書館蔵)
・高知県誌刊行会1933『高知県誌』高知県誌刊行会
・高知市地図編纂会1959『高知市内細地図 昭和34年度版第1版』高知市地図編纂会
・高知市役所編著1920『高知市誌』高知市役所
・高知市市史編纂委員会編1958『高知市史』上巻
・日本遊覧社編著1930『全国遊廓案内』日本遊覧社