福岡県所在の遊廓の沿革と概要
福岡県では、近世に福岡藩が公認した柳町遊廓があり、小倉藩では、港町の田野浦に遊女屋を置くことを許可した。明治5年(1872)の芸娼妓解放令の際には、福岡県は「速カニ解放」としつつも明治6年(1873)には「娼妓」を「芸者」と言い換え8カ所(福岡・博多・堅粕・芦屋・若松・宰府・湯町・甘木)の貸座敷免許地を指定した。一方、小倉県は完全に解放することとしたが、福岡県へ合併後は明治15年(1882)に田野浦が指定されたのが旧小倉県内では最初の貸座敷免許地となる。製鉄所、軍関連施設、石炭輸出港に隣接する地域に貸座敷免許地が指定され、また石炭輸出等で満州・朝鮮・台湾へ渡航しやすい地理的条件があったためか、「からゆきさん」を多く送り込んだ拠点でもあった。
福岡県内に所在した遊廓・遊所について、①)明治以前、②明治・大正・昭和初期、③戦後の三期の時代区分を設け、遊廓の概要を説明する。これとは別に、「B 詳細情報」として史料所在情報、触・布達年表、参考文献・論文一覧を作成した。参考文献名は最後にまとめて明記することにした。なお、情報は、今後、随時加筆・修正していく予定である。
『日本遊廓一覧』(上村行彰著『日本遊里史』春陽堂発行、1929年刊(藤森書店復刻、1982年刊)巻末附録 第一『日本全国遊廓一覧』より(健康診断病院名など一部省略))には、福岡県所在の遊廓として、10カ所が記載されている。
福岡県下の遊廓一覧 (『日本遊廓一覧』より)
新柳町(福岡市) | 連歌町(北九州市) | 旭町(北九州市) | 原古賀(久留米市) | 馬場(北九州市) |
新地(大牟田市) | 八幡(北九州市) | 東町(遠賀郡) | 向島(大川市) | 直方(直方市) |
※参考(福岡県の成立):『国史大辞典』より
近世には筑前の福岡藩・秋月藩(支藩)、筑後の久留米藩・柳川藩、預け地の旧三池藩領、豊前の小倉藩・小倉新田藩(支藩の千束藩)が存在した。明治4年(1871)廃藩置県により、旧藩主がそのまま知藩事に任命され、同年11月、豊津県(小倉藩)・千束県・中津県が合併して小倉県、福岡県・秋月県が福岡県、久留米県・柳川県・三池県が三潴(みずま)県となった。明治9年(1876)4月、福岡県は小倉県を合併、三潴県は佐賀県を合併した。同5月には旧佐賀県下の杵島・松浦郡、6月には藤津郡が長崎県に分属された。同8月には三潴県は福岡県に合併、この時に旧佐賀管下の残り6郡は長崎県に、福岡管下の豊前国下毛・宇佐郡は大分県に分属され、現在の福岡県域となった。
1、明治以前
◎小倉藩 田野浦(現北九州市門司区田野浦)
小倉藩(譜代大名小笠原氏、約15万石)は、城下町小倉以外の地域は農村地帯・漁村・塩田地域で(坂本-2015)、そのうち田野浦は、関門海峡東口に位置する。近世中期以降、盛んに関門海峡を航行した北前船は、下関に寄航した折に対岸の田野浦で船のメンテナンスをおこなったという。(『北九州市史』近世、1987年)明治8年(1875)ころには、14軒の船宿が営業しており、蝦夷松前・越後から周防までの日本海側諸国、大坂・淡路・阿波・伊予など瀬戸内海方面など各地の廻船を取り扱った田野浦の繁昌ぶりがうかがえる。(『日本歴史地名体系』、『北九州市史』近世)また、田野浦の西方に位置する大里は、本州と九州を最短距離で結ぶ港で、九州諸藩の本陣が置かれ、参勤交代用の船舶が多く出入りした。(『北九州市史』近世、1987年)
小倉藩は宝暦の頃(1751~1764)、田野浦の港に茶屋女郎を置く遊女屋を許可しており、幕末期には永文字屋、蛭子屋、新開の鍛冶屋が営業していた公許の遊廓地である。(『北九州市史』近世、1987年)北前船の寄港地であったため乗組員を客として繁昌し、遊女40人が存在した。(『北九州市史』近代・現代 行政社会、1987年)
◎福岡藩 柳町(現福岡市博多区下呉服町)
博多津は古代から近代において東アジアとの流通拠点として繁栄した地域である。須崎浜(那珂川辺り)には海上交通の客を当て込んだ妓楼が散在していたという。(松崎-1969年、横田-2012年)慶長期に黒田長政が福岡城築城にあたり、御笠川(旧石堂川)沿いの柳町に妓楼を集め、福岡藩公認の柳町遊廓が成立した。しかし、福岡藩は藩士には遊所通いを禁止し、処罰は厳しかったようである。
寛文8年(1668)12月の妓楼薩摩屋からの出火火災により、元文2年(1737)2月まで夜間営業禁止の藩命が下され、暮れ六つには南大門は閉鎖するという決まりであった。(松崎-1969年)
柳町には遊女屋以外に呉服屋・小間物屋・肴屋などが数軒みられたが、遊女屋は博多の町組織からは外されており(横田-2012年)、自治が認められ楼主が強大な権限を持っていたという。遊女は病気保養でも大門から出ることは出来ず、違反すれば過酷な制裁が加えられた。(松崎-1969年)
柳町にはとら屋という遊女屋があり、元禄期(1700年頃)から営業を始めたという。とら屋清三宛の「遊女奉公人年季請状之事」ほか数点の史料が残されている。(横田-2012年)
元禄3年(1690)には遊女数60~70人、妓楼19軒(『筑前国続風土記』)、元文2年(1737)には妓楼が9軒(『博多津要録』)、宝暦13年(1763)には遊女83人(『石城志』)だった。(松崎-1969年)
2、明治・大正・昭和戦前期
◎北九州地域
(田野浦・馬場)
明治5年(1872)10月の芸娼妓解放令にともない、小倉県は同月に「女芸者、茶屋女郎」の解放を申し付けたが、「極々難渋之者」については期限を定めて申し出ることとし、営業を許可した。「女郎」は「飯盛」と改め、月々500文の税金を納める触を出した。(『北九州市史』近代・現代 行政社会、『門司市史』)
田野浦では、当時3軒の遊女屋に21人の遊女が抱えられていた。(永文字屋8人、蛭子屋10人、鍛冶屋3人)小倉県の解放方針に対し、遊女屋たちは、遊女たちの年季明けまでは営業を継続させてほしい、その間に改業するという猶予願いを出した。しかし、小倉県は政府の方針に従うこととし、10月19日に、難渋者には期限を定めて営業を許可するという先の触を取り消し、田野浦の茶屋女郎を即時解放するという触を出した。遊女屋たち3名は、同月晦日付けで、抱え女郎たちをそれぞれ閉業させたと届け出た。(『北九州市史』近代・現代 行政社会、『門司市史』)
小倉県の対応は、芸娼妓解放令が出された後10日前後の間に、解放をより徹底させる方向に転換したと言える。まず芸娼妓解放令にならい遊女を解放させたが、生活に困る者は期限内は営業を許可し納税を義務とした。ところが数日の後に、例外なく一切解放という方針に転換したのである。解放後の田浦の遊女たちは不慣れな仕事に困惑し、遊女屋も年季の間の遊女稼を何度も嘆願したという。
明治9年(1876)4月小倉県は福岡県に合併するが、同年12月に出された福岡県布達第491号「貸坐舗規則」において指定された貸座敷指定地に旧小倉県の指定地は含まれなかった。(『北九州市史』近代・現代 行政社会)田野浦が指定地に復活したのは、明治15年(1882)10月19日の福岡県布達第76号「貸坐敷規則」からとなる。(『北九州市史』近代・現代 行政社会)客帳に遊客の住所・身分・職業・妓名・年齢など詳細に記し、田野浦は2日ごとに(他営業地は毎日)所轄警察署・分署へ届け出が義務づけられた。(『北九州市史』近代・現代 行政社会)明治27年(1894)7月には貸座敷営業地に文字ヶ関村門司が追加されている。
明治32年(1899)「門司市街旅客案内図」や大正13年(1924)「門司新市街図」(いずれも日文研HPで確認)には、田野浦に遊廓は記載されておらず、両図では門司の内本町(現・東本町2丁目あたり)に「遊廓」と記載されている。また昭和初期の『日本全国遊廓一覧』には「門司市内本町」(馬場)とあり、田野浦が上がっていないことから、田野浦遊廓は明治27年(1894)に門司が営業地に追加されて以降、衰退したと思われる。
田野浦遊廓の顛末については未確認ではあるが、国際貿易の拠点としての門司港の発展により、近隣の村であった文字ヶ村が門司町となり発展し、さらには貸座敷営業地として認可されたことにより、田野浦遊廓は衰退を余儀なくされたと考えられる。門司が営業地に指定された年、兵器製造所が設置(1912年に小倉へ移転)されていることとの関連は未確認だが、流通の拠点に隣接することで繁栄した遊廓地は、田野浦から門司へと移っていったと考えられる。
(旭町)
北九州の小倉は小倉築港による発展とともに、明治期に軍隊が誘致された「軍都」として発展した性格を持つ地域でもある。
遊廓については先述(田野浦・馬場の項を参照)のとおり、旧城下町である小倉は貸座敷免許地に指定されていなかった。そのため、小倉の繁栄を考え、明治11年7月に小倉町惣代三宅道兪ほか6名が小倉で貸座敷営業ができるよう出願した。明治14年2月には町会連合会でも芸妓・娼妓の営業許可を推進することになり、陳情が続けられた。この背景には、小倉港修築の財源に芸娼妓営業の利益を充てることで、修築許可早期実現を達成する目論見があったとされている。(『北九州市史』近代・現代 行政社会)
明治16年3月には福岡県布達第19号「芸妓営業取締規則」によって新たに小倉市街での芸妓営業が許可された。(他には従来貸座敷免許地と宇島村、久留米市街、柳河市街を許可)このとき、小倉での娼妓営業はまだ認められていなかった。明治17年(1884)5月には小倉町会連合会の設置委員の協議により、取締人(月給7円)による運営方針を変え、設立委員3人一組、1ヵ月当番での茶屋営業の監督、町の経営を行うこととした。のちの「券番(検番)」の機能を備えたものだった。(『北九州市史』近代・現代 行政社会)
さらに、明治16年5月の町会連合会では「芸妓ヶ所」設置委員を選出し(7月に設置委員を9名に)、船町(現・船頭町)に設置を決定、8月には営業を開始し、「旭町」と改称した。かなりの収益があった様だが、明治17年(1884)1月以降、県会議員となった三宅道兪を通じて娼妓営業の許可を求めて県への働きかけが続いた。一方で、もともと旭町遊廓設立願いの背景に小倉港修築の財源としての貸座敷営業地構想があったことから、小倉港修築関係者から郡長に対し、旭町の収益を港修築費用に充てるという要求がなされた。旭町の取締所委員による説得に郡長と茶屋経営者が応じ、茶屋中300円5ヶ年年賦で築港への費用に寄付することとなった。小倉町の娼妓営業の認可を求めた運動に対し、明治20年(1887)福岡県警察部長から企救郡長へ地元意見の問い合わせがあった。郡長は、貸座敷設置場所を旭町とするかどうかは検討を要するとし、別の適地も考慮する案を述べた。すでに指定地となっていた田野浦については、非常に景気の良い門司港に近く廃止するべきではないとしている。結果的に、同年9月、「貸座敷娼妓取締規則」(改正)において「企救郡 小倉船町」が指定地に追加され、舟町の旭町は芸娼妓営業許可地となった。(『北九州市史』近代・現代 行政社会)
次に、軍隊関連施設の配置の流れを見ていく。明治4年(1871)、小倉城に西海道鎮台が置かれたが、7月には鎮西鎮台として熊本に設置され、明治6年(1873)熊本鎮台となった。明治8年4月には小倉城に歩兵第14連隊が配置され、練兵場(城内南部)・演習場(平尾台)・墓地(篠崎千堂・城野村高坊)などが設置された。明治21年(1888)5月には熊本鎮台が第6師団となり熊本鎮台営所が小倉へ移転、6月には小倉大隊区司令部が開設された。同年12月福岡歩兵第24連隊と小倉歩兵第14連隊により、小倉歩兵第12旅団が編成され、明治29年(1896)2月小倉町の師団誘致運動が成功し、明治31年(1898)11月、小倉城に第12師団司令部が開設された。(坂本-2015)
大正期には、大正5年(1916)4月、大坂砲兵工廠小倉兵器製造所が門司から小倉城内に移転開設された。大正7年(1918)には小倉陸軍兵器支廠が小倉城内から城野へ移転、大正9年(1920)に野戦重砲兵第5連隊が下関から北方へ移転した。関東大震災により陸軍造兵廠東京工廠が被害を受けたため、昭和3年(1928)には東京工廠小倉出張所が小倉兵器製造所内に開設された。昭和8年(1933)には小倉第14連隊を北方へ移し、陸軍造兵廠小倉工廠が開設された。この誘致は、官営八幡製鉄所が隣接しており兵器製造に必要な物資を供給することが可能な地域であったことが大きい。(坂本-2015)第1次世界大戦後の「宇垣軍縮」により、大正14年(1925)に久留米第18師団が廃止となり、小倉第12師団が久留米へと移転した。昭和16年(1941)11月には、一県一連隊区制度により福岡連隊区に統合された。(坂本-2015)
小倉の軍関連施設の領域は、紫川西側に位置する小倉城内から南へ配置され、さらに小倉城から南東に約4㎞ほど離れた、紫川東側の城野・北方の広域にわたり軍施設が設置され形成されていった。
第12師団の誘致が決まると、城野・北方でも芸娼妓誘致運動が盛んとなり、非公認の料理屋・酌婦の「曖昧屋」が作られた。(坂本-2015)
小倉旭町が芸娼妓営業許可地となった時点ではすでに歩兵第14連隊が駐屯しており、芸娼妓営業許可を嘆願する運動の背景には小倉築港財源としてという理由だけでなく、小倉町繁栄のため軍隊を誘致する運動とも深い関連があったと考えられ、芸妓・娼妓の負担は町全体の繁栄の手段となっていたと言える。
一方、三宅道兪は明治17年(1884)4月に芸妓の素養を高めるための学校設立を願い出た。「旭町女紅場」とし、5月に開業し、明治20年(1887)6月に新築落成、11月には運動会が開かれ芸妓50人・娼妓16人が参加した。(『北九州市史』近代・現代 行政社会)
太平洋戦争時には、小倉は原爆投下の目標地点とされていたため、通常爆撃の対象とはならなかったが、小倉造兵廠、八幡製鉄所が爆撃され、1945年6月には大牟田・福岡・門司・下関、8月8日には八幡の市街地が空襲された。八幡空襲の火災による煙が、原爆投下目標の目視を妨げたと言う。(坂本-2015)
◎福岡地域 (断りのない限り、すべて森崎-1993年を参照した。)
福岡県は、明治5年(1872)5月の時点で、公許の柳町遊廓以外での隠売女を厳禁とする布達を出している。(『光をかざす女たち』-1993年)10月の芸娼妓解放令を受けて、娼妓・芸妓を「速カニ解放」することとし、解放の状況を各区長に報告させ完全実施を目指した。しかし福岡県は、明治6年(1873)9月30日には、「芸者並貸座敷渡世者内規則」を出し、人身売買に紛らわしい行為を禁止し、娼妓芸妓の名称を廃して接客女を「芸者」と称することとした。やむを得ない事情で「芸者」渡世を希望する者は、保証人と共に県に申し出て鑑札を受けることになった。「芸者」の営業地域は、貸座敷免許地内に限られ、福岡・博多・堅粕・芦屋・若松・宰府・湯町・甘木の8カ所を指定し、座敷賃は貸座敷業者と「芸者」の相対示談となった。つまり、解放令から1年も経たないうちに、「芸者」と呼称して性買売が認可されたことになる。名称を変えることで、芸娼妓解放令の主旨をやり過ごしたと考えられる。
明治8年(1875)1月1日から、新設置の許可地での営業を命じ(遠賀郡若松村・芦屋村、博多柳町、堅粕村水茶屋、宰府村、三潴郡若津浦、竹野郡(浮羽郡)松崎村)、福岡・湯町・甘木の3カ所は指定廃止となった。(森崎-1993年)
小倉県・三潴県が福岡県に合併された明治9年には「売淫懲罰則」が出され(7月11日)、県庁の許可を得ずに売淫した者には罰金刑が処せられた。ただし、父母などの指令によるものは指令者を罰することとした。
明治9年(1876)12月福岡県布達第491号「貸坐舗規則」「芸娼妓規則」が定められ、「芸者」名称を廃止し、娼妓・芸妓の呼称に戻した。娼妓・芸妓ともに貸座敷地域内に居住することとし、7カ所の貸座敷免許地を指定した。(博多柳町・堅粕村水茶屋・芦屋・若松・宰府・三潴郡若津・竹野郡松崎)この時の指定地増加は、合併した三潴県が2カ所加わったためである。
ところが、明治11年(1878)9月11日に出された甲第186号「貸座敷並芸娼妓規則」では、貸座敷免許地が5カ所となり宰府と旧三潴県の松崎が取り消しとなった。店頭に娼妓の写真と揚げ代を掲げることが定められ、娼妓自身による自営という建前がなくなった。芸妓・娼妓はともに24ヶ月間に限り働くことができ、年齢制限は設けられていなかったため、12、3歳の娼妓もいたという。
明治15年(1882)4月の県会では、性買売をせず芸を売るはずの芸妓が娼妓同様に居住場所を指定されていることが問題となった。県議岡田孤鹿により「芸妓ハ雑種税ノ内ニ入リタル以上ハ、出願セバ何レノ地ヲ問ワズ許可スベキモノ」であるとの発言があり、他の雑種営業と比べ芸妓営業権が拘束されていることを指摘した。小倉の軍隊関係者が対岸の山口県下関から芸妓を呼び寄せ外泊させており、小倉ではなく隣県の下関が恩恵を受けていることも問題となった。
明治15年(1882)10月19日の福岡県布達第76号「貸坐敷規則」「娼妓規則」改正が出された。「貸坐敷規則」改正では、張店を禁じ、貸座敷免許地には企救郡田野浦(旧小倉県)を加えた6カ所を指定、「娼妓規則」改正では16歳未満の者を禁じ、初めて年齢制限を設けた。明治16年3月15日には布達第19号「芸妓営業取締規則」が公布され、営業許可区域内に居住することが定められたが、貸座敷許可地6カ所(博多柳町・堅粕村水茶屋・芦屋・若松・三潴郡若津・企救郡田野浦)のほかに6カ所(福岡市街・博多市街・久留米市街・柳河市街・小倉市街・企救郡宇ノ島)が営業地に追加された。つまり貸座敷地域外の指定町村に芸妓が居住・営業できるようになり、「町芸妓」として営業地域が拡大されたことになる。遊興地域が拡大したことで、周辺に私娼が増加していった。
芸妓券番の新設願が相次ぎ、福岡県は明治24年(1891)12月1日に県令第68号「芸妓営業取締規則」により、明治16年(1883)に指定した芸妓の営業地区の限定を廃止し、営業地域を開放することになった。芸を売るだけにとどまらないことを問題視し反対する動きもあったが、入れなれなかった。
明治42年(1909)、九州帝国大学工科大学の設立にともなう風紀上の問題により、柳町遊廓は「新柳町」(現清川町)に移転し、昭和32年(1957)の売春防止法まで清川町で営業した。「新柳町」に対し、最初の柳町を「旧柳町」と言う。(松崎-1969年)
◎筑豊地域
◎筑後地域
明治4年(1871)に現在の佐賀県域を含めた三潴県が設置された。三潴県では、明治5年(1872)の芸娼妓解放令に対し、明治6年(1873)12月13日「遊女芸妓俳優者規則」を出し、自ら遊女として父母を養う者や一家の生計を立てるために芸妓となる場合は、詮議の上認可し鑑札を与えるとした。芸妓の場合は遊女稼ぎは禁止し、遊女渡世の場所を若津(筑後川河口の港町)に限定した。(森崎-1993年)
◎海外渡航(朝鮮・満州・台湾)による性買売
北部九州に位置する福岡港・門司港は、本州と九州、日本と朝鮮・満州・台湾を行き来する際の要港であった。日清戦争後、福沢諭吉の「娼婦輸出」論の影響もあってのことか、この港から海外渡航婦「からゆきさん」(海外で性を切り売りさせられた日本人「娼婦」)が海を渡っていった。『福岡日日新聞』『門司新報』には、誘拐に近いかたちで女衒(密航ブローカー)・口入屋によって連れてこられた女性たちが門司港から台湾等へ送られる直前に発覚し警察に保護された記事(『福岡日日新聞』1898年4月27)、尾道・神戸・大阪、九州などから口入れ屋が女性を集め、門司まで連れてこられ密航させられる記事(『福岡日日新聞』1905年10月29日)など、「密航婦」として門司港を拠点に海外へ渡航させられる記事が多く見られる。(鈴木-1996年)
・「博多市対馬小路の飲食店主三木○○」が芸娼妓21名を連れ船便で韓国京城に渡った(『門司新報』1904年9月30日)
・韓国釜山・仁川・京城の遊廓が女性を募集しその1回目の募集者三木某が「柳町よりも三福亭の抱娼妓北洲を始め」67名の希 望者を集め渡韓し、今回第2回目の募集に来た(『福岡日日新聞』1904年10月5日)、
・韓国京城居留地の彦武常吉は、「京城居留地料理屋阿比留某方へ」11名の女性を連れて行くため、長崎・小倉・熊本などから11名の女性を集め、「博多東町旅宿豊後屋」に引率してきたところ、警察に密航を疑われたが事情がわかり釈放(『福岡日日新聞』1904年10月11日)
(いずれも鈴木-1996年より)
いずれも1904年の同時期の記事である。ここで見える「対馬小路」は三等料理屋街で、私娼の多くいた地域である(森崎-1993年)。日露戦争の戦地へ向かった軍隊を追って(森崎-1993年)、韓国京城の遊廓で働く日本の女性を募集し、博多の飲食店「三木某」や京城在住の日本人がその人集めに奔走し、募集のために何度も各地をまわったことがわかる。福岡は、人集めに奔走した周旋人たちの拠点となった地でもあったといえる。
なお、1910年には台湾に公娼制度が導入され、1916年には朝鮮全道にわたって公娼制度が確立された。(鈴木-1996年)
3、戦後
◎北九州地域
1945年(昭和20)10月、小倉へ連合軍の進駐が始まった。米軍の第32歩兵師団が駐屯し、旧日本軍施設であった小倉城内・城野・北野などは接収され、翌年5月には第32歩兵師団と第24歩兵師団が交替した。1950年の朝鮮戦争時、7月に第24歩兵師団は朝鮮へ出動した。同様に出動を待機していた第25師団第24連隊所属のキャンプ城野の黒人兵約160人の集団脱走で、市民への強盗・強姦被害は判明しているものだけでも70件あまりとされている。(坂本-2015)
一方で、輸送機発着の芦屋飛行場には、米兵相手の街娼が行き交い、城野の旧兵器補給廠には朝鮮戦争で戦死した米兵の死体処理施設が置かれた。松本清張『黒地の絵』は、城野の集団脱走事件と死体処理施設で働く脱走事件による強姦被害者の夫を題材に当時を生々しく伝えている。
1951年ころには、小倉にRRセンターが作られた。米軍による接収解除の後、多くは自衛隊施設となった。明治以来、軍関連施設を誘致した小倉は、戦後においても軍との関係は連綿と続いた。
文責:佐藤敦子
*参考文献
・『北九州市史』近世(北九州市史編さん委員会、1990年)
・『北九州市史』近代・現代 行政社会(北九州市史編さん委員会、1987年)
・『門司市史』(門司市史編集委員会、1963年)
・坂本悠一「北九州における軍隊と戦争―「軍都小倉」の成立・衰退・再生」(『地域のなかの軍隊6 九州・沖縄』、吉川弘 文館、2015年)
・西山雄大「福岡県の貸座敷免許地にみる遊廓の空間構成」(日本建築学会研究報告. 九州支部. 3、計画系 (54)、2015年)
・横田武子「博多柳町遊郭の人身売買の変遷―身代金と前借金」(『リベラシオン・人権研究ふくおか』、2012年、福岡県人権研究所)
・松崎武俊「柳町遊女の身売り証文」(『暁鐘』1969年1月号初出、松崎武俊著作集下巻『警察志・竹槍一揆資料』再録、1988年、葦書房)
・森崎和江『売春王国の女たち―娼婦と産婦による近代史』(宝島社、1993年)
・『光をかざす女たち』(福岡県女性史編纂委員会、1993年)
・鈴木裕子「『福岡日日新聞』『門司新報』にみる、からゆきさん―「女性と植民地」についての覚え書―」(『福岡県史』近代研究編各論(二)、西日本文化協会、1996年)