奈良県所在の遊廓の沿革と概要

 奈良県の遊廓は、17世紀初頭には木辻町・鳴川町(奈良市)に傾城町が形成された。17世紀後半には両町合わせて29軒のくつわ・上屋が存在し、公認遊廓として存在した。大和郡山の岡町・洞泉寺町や上街道・初瀬街道など街道沿いの宿駅(丹波市・桜井・八木・高田など)にも煮売屋・煮売取売茶屋・旅籠屋と称し遊所が形成された。明治5年芸娼妓解放令後、11月には席貸渡世6軒以上10軒で1社を設ける結社方式をとったことが特徴的である。明治10年には奈良県内で4ヶ所(木辻町・元林院町・岡町・洞泉寺町)が「遊妓席貸営業地」として許可されたが、のち元林院町が貸座敷営業地から外れ瓦堂町が営業地となった。木辻町では、明治20年代に貸座敷17軒・娼妓数195人。昭和31年の売春防止法により営業を停止。


 ここでは、奈良県内に所在した遊廓・遊所について、①)明治以前、②明治・大正・昭和初期、③戦後の三期の時代区分を設け、各時期の遊廓に関する主要事項を年表形式で示した上で、遊廓の概要を説明する。これとは別に、「B 詳細情報」として史料所在情報、触・布達年表、参考文献・論文一覧を作成した。参考文献引用の箇所には番号をつけ、文献名は最後に明記することにした。同じ文献を再度引用した場合は、(著者名、出版年)で表示した。なお、情報は、今後、随時加筆・修正していく予定である。

 『日本遊廓一覧』(上村行彰著『日本遊里史』春陽堂発行、1929年刊(藤森書店復刻、1982年刊)巻末附録 第一『日本全国遊廓一覧』より(健康診断病院名など一部省略))には、奈良県所在の遊廓として「木辻・瓦堂・洞泉寺・東岡」の4カ所が記載されている。「木辻」「瓦堂」は、奈良町の木辻遊廓を指し、「洞泉寺」「東岡」は、大和郡山市の洞泉寺町と東岡町の遊廓を指すものと思われる。以下、①奈良、②大和郡山、③その他の地域に分け、遊廓・遊所の沿革を記す。

1.明治以前

[年表]

文明元年(1469)8月1日 子守郷(率川神社)・南室郷(元興寺郷の一つ)・手掻郷(転害郷)に遊所あり。
文明18年(1486)9月23日 子守・南室郷に遊女あり。
明応3年(1494)6月8日 高畠・南室・木守辺りに「好色住屋」あり。
天文21年(1552)7月8日巡礼の女房、手掻の焼き餅売りによって今辻子の「ケイセイヤ」に売られる。
寛永6年(1629) 堀市兵衛、奈良奉行中坊左近に木辻の遊廓設置の許可をもらう。
貞享4年(1687) 木辻町に「上屋七軒、くつわ七軒」、鳴川町に「上屋六軒、くつわ四軒」。

1)奈良

 中世の奈良の遊所については、『大乗院寺社雑事記』にいくつかの関連記事を見出すことができる。文明元年(1469)8月1日条、同18年(1486)9月23日条、明応3年(1494)6月8日条では、率川神社・元興寺近辺・転害・高畠・木守辺りに遊所らしきものが存在したことが記されている(井岡、2011)。天文21年(1552)には巡礼中の丹後国の女房3人のうち1人が、手掻の焼き餅売りにたぶらかされ、今辻子の「ケイセイヤ」に売られたという記事がある(井岡、2011)(2)。
 近世の奈良の遊所については、『奈良坊目拙解』によると、慶長・寛永年中(1596~1643)木辻に茶店が二三あり、遊女を置き遊客が多く集まったが、万治・寛文年間(1658~1672)の公儀の禁制により衰退したとあり、天和・貞享年間に再び茶屋ができ、繁昌した様子が記されている。木辻鳴川の傾城町は、井原西鶴『好色一代男』(天和2年(1682))にも登場し、『色道大鏡』には、堀市兵衛(豊臣秀吉に仕え、のち堀与九郎養子となる)が、寛永6年(1666)に奈良奉行中坊左近に許可を得て木辻に遊廓を設けたとある(井岡、2011)。『奈良曝』巻1には、貞享4年(1687)段階で木辻町に「上屋七軒、くつわ七軒」、鳴川町に「上屋六軒、くつわ四軒」が存在したとあるが、巻4の「諸職名匠商人」の項目では、上屋は木辻6軒・鳴川5軒、くつわは木辻5軒・鳴川3軒が存在したとなっている。
 天保~安政にかけての奈良の遊所については『奈良奉行所与力橋本家文書55 隠し売女』(以下、『橋本家文書/隠し売女』とする)に詳しい(井岡、2011)。以下、史料に添ってみていく。なお、江戸時代の奈良は奈良奉行、郡山は郡山藩の支配となっており、郡山奈良掛が仲介役となっている。
 木辻町は元和の頃に傾城商売を許されたといわれているが、詳細は不明である。寛政10年(1798)にはすでに木辻町1ヶ所のみに公的に売女渡世が許可されていた。天保13年(1842)・安政6年(1859)でも確認できることから、その間営業が許可されていたのは、表向き木辻町1ヶ所のみという状態が続いていたと言える。寛政9年には「木辻町傾城屋・揚屋・茶屋惣代」が、郡山岡町・洞泉寺町の煮売渡世の者共の遊所稼業を糺すよう願出、翌年郡山城主が両町の遊所をやめさせた。郡山両町は難渋に陥り、木辻町御仲間へ詫びを入れている。この一件以来、売女稼業はしないことを条件に、郡山両町煮売屋へ木辻町のみから「木辻町内抱店女郎」20名を酌女として貸し渡し、両町から木辻町へ年2回の世話料を支払うこととなった。天保13年の隠売女取締で、郡山の売女渡世が指摘され、木辻町遊女屋は貸し渡していた酌女を引き取ることとなった。嘉永3年(1850)・安政6年にも、取締りに際して木辻町傾城屋・揚屋・茶屋から要請が出されている。取締りでお咎めをうけた者の所在地から、木辻町以外で売女渡世をおこなっていた地域が多くあったことがわかる。また木辻町以外の者が多数摘発され中には再犯もいることから、木辻町は公認遊廓として頂点に存在するものであり、公認遊廓一ヶ所体制を保持しつつも、周知の遊所が何カ所も存在したようだ(詳細は「③その他の地域」参照)。
 明治期に遊廓地に指定される元林院については、幕末に至るまで遊所としての記述は未見である。『奈良坊目拙解』は、興福寺の別院で南北の道筋を絵屋町というのは、仏画師が住んだことによるとし、春日絵所の氏姓の家があったとしている。(3) 

2)大和郡山

 大和郡山の傾城町は、もと雑穀町辺りにあったが、元和年間、水野日向守信之が城主の時、洞泉寺北側の牢屋敷跡に移されたらしい。(4)
 岡町(『橋本家文書/隠し売女』東岡町)・洞泉寺町には煮売屋・煮売取売茶屋と称し売女渡世を営んでいた店が多くあった。その様子は、『橋本家文書/隠し売女』に詳しい(寛政9年以降の奈良木辻町遊廓との関係は上記を参照)。天保13年時点で、煮売茶屋渡世は東岡町9軒、洞泉寺町5軒、煮売取売(古道具屋?)茶屋渡世は東岡町11軒、洞泉寺町8軒で合計33軒、木辻町からの酌女雇い入れ22人といった規模であった。天保13年8月には、両町で売女渡世取締りにあい木辻町からの酌女貸渡しはできなくなったが、安政6年にも東岡町・洞泉寺町煮売屋が隠売女営業をおこない取り締まりを受けていることから、両町は長らく遊所的な存在だったと言える。

3)その他の地域

 丹波市(現・天理市)は、丹波庄の市場町として室町中期に形成され、近世には宿場町として発展した。元亀元年(1570)の史料に「くつわや」、寛政11年の史料に「やねや」という屋号がみえる。(5) 明治6年の「日新記聞」には、丹波市村の「屋根屋某」という「売婦ヲ抱へ活計」としていた者が、芸娼妓解放令にともない「抱女」を解放したとある(井岡、2011)。これらの屋号が同一のもので、かつ遊女屋であったかどうかは不明だが、近世初頭には丹波市には遊所施設が存在し、それは『橋本家文書/隠し売女』でも取締対象として登場する。安政6年、藤堂和泉守領分山辺郡丹波市村煮売渡世9軒が隠売女営業で取り締まりに合っている。なかに「屋根屋」もみられる。
 同史料にはほかに、同年、植村出羽守領分十市郡北八木村旅籠屋渡世1軒、木村惣右衛門御代官所葛下郡高田村旅籠屋渡世2軒が隠売女渡世で摘発されたことが記されている。
 北八木村(現・橿原市)は中街道と伊勢街道の交差地にあたり、高田村(現・大和高田市)は下街道と伊勢街道が通っており、宿駅的な賑わいのあった地域である。

2.明治・大正・昭和戦前期

[年表]

明治5年11月 木辻町・元林院町・「其他従前仕来りの処」に限り、席貸渡世設置を許可。
明治6年6月 芸娼妓解放令につき、「娼妓会社」渡世のもの取調べることを布令。
明治10年10月 「売淫并売妓席貸業取締規則」:木辻・元林院・岡・洞泉寺4ヶ所の席貸業許可地が明記された。
明治14年7月 「席貸并娼妓営業取締規則」改正:席貸業許可地に変更なし。
明治25年6月 「貸座敷娼妓営業取締規則」(県令42号):木辻・元林院・東岡・洞泉寺
明治28年8月 (県令50号):貸座敷営業区域「東木辻・瓦堂・洞泉寺・東岡」に改める。元林院は明治30年2月28日まで営業許可(『奈良県警察史』P-429)。
明治33年10月 警部長訓示「娼妓取締規則施行心得」(原文は未確認、『奈良県警察史』P-429)および「(県令63号)貸座敷取締規則」(同上、『奈良県警察史』P-429)。

※参考(奈良県の成立)

慶応4年(1868)5月 奈良県(幕府直轄領・寺社朱印地のみ)
同年7月 奈良府
明治2年(1869) 奈良県
明治4年(1871) 11月大和一国の奈良県成立
明治9年(1876) 堺県に合併
明治14年(1881) 大阪府に合併
明治20年(1887) 奈良県再設置

1)奈良

 元林院について『藤田文庫 奈良雑稿』には、明治3年寄席揚弓屋開業、5年遊廓芸妓置屋開業許可とある(勝部、1999)。明治4年2月の触では、木辻・元林院遊所に来所の者は、役人を通じて取調書面を会所に差し出すことが命じられていることから、明治4年以前には遊廓施設があったと思われる。 明治5年(1872)5月、元林院町妓楼大庄から出火し、近隣の29戸が焼失した。
 明治5年10月の芸娼妓解放令の後、奈良県の対応はそれをそのまま実行するのではなく、独自の改正をおこなっている。奈良県は同年11月に「…渡世之者共活計之道ニも差響」ため、別紙心得を布令として出した。それによると、これまで渡世していた場所で5軒未満は廃止、6軒以上10軒までは1社を設け、11軒以上15軒未満は2社、といった具合に「社中」を設け営業すること、木辻・元林院・「其他従前仕来」のところに限り席貸渡世を許可した(井岡、2011)。結社方式をとったことは特徴的なことである。(佐賀)
 明治10年10月9日付「売淫並売妓席貸業取締規則」によって、「奈良元林院・木辻町・郡山岡町・洞泉寺町」の営業が許可され同年12月1日より施行されるはずであったが、いったん反故となり、12月20日付でこれが許可される。4ヶ所の遊廓営業地を指定した初見と考えられる。(筆者の判断による。)
 明治28年8月の県令では、貸座敷営業区域が、元林院・木辻・洞泉寺・岡町から、東木辻・瓦堂・洞泉寺・東岡町に変わり、元林院の営業許可は、明治30年2月までと制限された。しかし元林院はその後も遊所として存在し続ける。『奈良県統計書』では、元林院の貸座敷・娼妓数は明治28年までは記載があるが、以降は瓦堂町の記載となっている。元林院はこの時芸妓本位の遊所となった可能性が高い。『奈良県風俗志』には、明治27年県令によって芸妓本位となり娼妓は少数となったとある(勝部、1999)。
 明治28年(1895)の時点での4ヶ所の貸座敷数・娼妓数をみると、木辻町で17軒・娼妓153人、元林院で11軒・娼妓29人、郡 山の東岡町で6軒・娼妓5人、洞泉寺町で15軒の貸座敷が営業していたことが確認できる。(『奈良県統計書』より。ただし、統計書には開業・廃業・現数の数字に齟齬がみられるた め、正確な数字とは言い難い。)
 明治24年には奈良・大阪間に大阪鉄道が開通、明治32年に奈良・桜井間を奈良鉄道が全線開通したことによって奈良観光客が増え、明治40年には歩兵第53連隊が奈良に置かれたこともあり、奈良の遊廓は繁栄した。(6)
 とくに大正期の元林院は200人以上の芸妓をかかえ、近隣には市役所や映画館もあり、相当な賑わいをみせたと言われている。
 『昭和前期 日本商工地図集成』(「職業別索引」)からは、昭和8年(1933)当時、「奈良木辻遊廓事務所」という団体が木辻町に存在したことがわかる。「第二油屋・細谷楼・都楼・榮楼・福井楼・三山楼・第二有馬楼・下細谷楼・寿楼・第三油屋・大砲楼(後略)」などといった「妓楼」34軒とともに「奈良木辻遊廓事務所」の営業広告が掲載されている。明治後期から昭和初期にかけて、木辻町の貸座敷数は2倍に増えている。木辻町近辺では、「奈良劇場」(西木辻町)や「中井座」(瓦堂町)といった演劇場も賑わった。

2)大和郡山

 郡山岡町は明治10年以降、遊廓として公認されている。しかし明治13年頃には京咲・京富の芸者置屋2軒と新設の竹島のみとなり、京咲・京富が合体して富咲楼となったがうまくいかず、藤近楼と改め以後存続した。大正13年には、金魚養殖の成功者の出資により、清月楼が開業し、翌年以降、錦水楼などが続いた(『郡山町史』)。

3)その他の地域

 大正3年、大軌電車の開通により、生駒の宝山寺門前町が栄え始め、翌年には芸妓置屋が開業した。大正7年には鳥居前―宝山寺間のケーブルカーも開通し、大正10年「生駒芸妓株式会社」が創設され、生駒新地が誕生した。当時、置屋15軒、芸妓130名。(7) 
大正末期から昭和初期にかけて、奈良県内でもカフェーやダンスホールが流行した。昭和5年、奈良県内にはカフェーが229軒あり、年々増加した。(8) 奈良県警はダンスホールを許可しなかったが(『警察史』)、大阪府も許可しなかったことから、生駒新地には昭和5年の段階で2ヶ所のダンスホールが開設され、100人のダンサーをかかえていたらしい。ダンスホールは戦時中に閉鎖され、料理旅館は大阪市などの学童疎開の受入所となったという(『生駒市誌』)。
 廃娼運動は奈良県でも根強く展開され、昭和8年には新規貸座敷営業・増築は認めないことになり、「積極的な廃娼はさけ既得権を認めて自然消滅をまつ方針」をとった(『警察史』昭和編)。しかし一方で、貸座敷・娼妓の利用者数は年々増加し、大正末に奈良に移駐してきた陸軍歩兵38連隊では花柳病が流行し、木辻・洞泉寺・岡町の遊廓楼主に花柳病予防の協力を要請したという(『警察史』昭和編)。
昭和14年、政府により毎月1日が「興亜奉公日」と定められ、貸座敷営業の自粛(夜12時以降の登楼禁止など)が求められた。昭和19年には県下の高級料理店(料理店・カフェー・バー)の営業停止が決まり、営業者は転廃業、芸妓たちは軍需工場などへの就労を余儀なくされた。ただ例外もあり、「予科練」があった丹波市は柳本飛行場などの軍関係施設もあったことから、芸妓置屋・芸妓などの営業が認められた(『警察史』昭和編)。

3.戦後

[年表](『生駒市誌』、『警察史』昭和編)

昭和20年(1945)11月~ 占領軍用慰安所設置(「新温泉ホテル」・「あやめ池新温泉」・丹波市町万年楼)
昭和21年(1946)3月1日 貸座敷業廃止、料理営業許可
昭和22年(1947)7月 特殊飲食店を「特殊喫茶店」と改称する。
昭和26年(1951)2月 奈良市売春等取締条例
昭和27年(1952)5月1日 朝鮮戦争出兵の国連軍兵士休養施設「R・Rセンター」大阪市内から奈良に移転
同年7月 日星会(駐留軍サービス協会)結成。(商店会・観光飲食商協同組合など協賛)
同年9月3日 「R・Rセンター廃止期成同盟」結成。
昭和28年8月 奈良R・Rセンター調査団(奈良学生ユネスコ・奈良学芸大・奈良女子大)『古都の弔旗』作成。
同年8月12日 奈良R・Rセンター、神戸市へ移転決定
同年9月21日 神戸R・Rセンター開設
同年9月26日 奈良R・Rセンター、完全閉鎖
昭和31年(1956)1月 木辻花街大火(死者15人)

1)奈良

 占領軍の受け入れに伴い、奈良県は占領軍用慰安施設の設置に積極的に取り組んだ。昭和20年に奈良市登大路町「新温泉ホテル」・「あやめ池温泉」にキャバレーが設けられ、大阪からダンサーが集められたらしい。天理市丹波市町にも酒場万年楼が開業された(『警察史』昭和編)。昭和21年、GHQによる公娼制度廃止の指令をうけ、3月1日奈良県は、貸座敷業を廃止し、代わって料理営業を許可した(『警察史』昭和編)。その後、性病の蔓延が問題となり、昭和26年には奈良市売春等取締条例が施行された。昭和31年には、政府による売春防止法制定に至る。
 朝鮮戦争に際して、国連軍兵士のための「休養と元気回復」の施設である、R・Rセンター(Rest and Recuperation Center)が、昭和27年5月1日、大阪市内から奈良市横領町(現在、平城宮跡正面のセキスイ工場)に移転してきた(以下、R・Rセンター関係はすべて(9)を参照した)。1ヶ月後の6月にはすでに、近辺にカフェ・バー34戸、ギフトショップ12戸、飲食店7戸、キャバレー4戸、ストリップ・ショウ3戸などが建ち並んでいた。売春婦は約3000人いたといわれ、周辺の風紀の乱れは著しかった。売春婦は大阪府出身者が多かったようだ。大阪からの客引き集団が暗躍し、売春婦と兵士に部屋を貸す農家もあらわれた。
 昭和27年9月、風紀の乱れや教育環境の悪化、観光面への影響を危惧した奈良ユネスコ協会、奈良総評、奈良教職員組合などにより「R・Rセンター廃止期成同盟」が結成された。翌28年8月には、奈良R・Rセンター調査団(奈良学生ユネスコ・奈良学芸大・奈良女子大学生など)によりセンター周辺地域(都跡小学校)の調査がおこなわれ、『古都の弔旗』が作成された。センターは神戸に移転することが決まり、9月26日には奈良R・Rセンターは完全に閉鎖された。ところが、8月24日より、米海兵隊4000人が奈良市内に駐留を始めた。これをきっかけとして、廃止同盟は奈良市非武装都市建設同盟を結成した。外国軍隊の基地があることで地域がどう変わっていくかを描いた映画『狂宴』は同年12月から奈良でロケが始まり、翌年公開された(監督 関川秀雄、脚本 片岡薫、出演 望月優子、三島雅夫、東野英治郎、中原早苗ほか)。
 昭和31年1月には、木辻町で死者15人を出す大火があった(木辻遊廓への影響は今後調査の予定)。なお、木辻町にある称念寺は木辻遊廓の遊女の引導寺として知られ、無縁仏の墓石がピラミッド状に集積されている。

2)大和郡山

 大和郡山市洞泉寺は、1977年当時で特殊料理店17軒、接待婦約80名。東岡町は特殊料理店29軒、接待婦約150人が営業している(『郡山町史』)。

3)その他の地域

 戦時中の風俗統制により、県内の置屋・芸妓は、戦後しばらくは激減したままだった。生駒新地は、戦前120戸あった料理旅館は昭和31年には50戸、500人を超えた芸妓は60人と激減した(『生駒市誌』)。

※郡山洞泉寺、東岡町、その他の地域は現在のところ未調査のため、詳細な情報は今後随時追加していく予定。

(佐藤敦子)

 

*参考文献

(1) 井岡康時「奈良町木辻遊廓史試論」(奈良県立同和問題関係史料センター『研究紀要』第16号、2011年)
(2) 稲城信子『日本中世の経典と勧進』(塙書房、2005年)
(3) 勝部月子「花街の成立―奈良元林院の事例を通して―」(帝塚山短期大学『日本文化史研究』31号、1999年)
(4) 『郡山町史』(郡山町史編纂委員会、1953年)P-498
(5) 『天理市史』(1976年)
(6) 『奈良県警察史』明治・大正編(奈良県警察史編集委員会、1977年)
(7) 『生駒市誌』(生駒市誌編纂委員会、1974年)、『ハンドブック 生駒の歴史と文化』(生駒市教育委員会、2008年)
(8) 『奈良県警察史』昭和編(奈良県警察史編集委員会、1978年)
(9) 田中はるみ「奈良RRセンターと地域住民―朝鮮戦争下の在日国連軍基地をめぐって―」(『大阪国際平和研究所紀要 戦争と平和 ‘01』Vol.10、2001)
(10)『花ひらく―ならの女性生活史―』(ならの女性生活史編さん委員会、1995年)