兵庫県所在の遊廓の沿革と概要

 兵庫県では、開港以前に公許の遊廓が存在しなかったが、兵庫津・佐比江新地は遊所として栄え、西国街道沿いの旅籠屋には飯盛女が置かれた。幕末に居留地開設の諸対策として福原遊廓が開業し、そこでのみ遊女屋営業が認められた。芸娼妓解放令後、兵庫県令神田孝平は解放令に則った政策をとったが、翌明治6年には営業区域制限を撤廃し、明許散娼ともいえる方針をとった。明治11年売春営業は再び福原遊廓のみに限定され、明治・大正・昭和を通じて貸座敷数・娼妓数・遊客数ともに拡大していく。


 ここでは、兵庫県に所在した遊廓・遊所について、芸娼妓解放令前後を中心に、遊廓に関する主要事項を年表形式で示した上で、その概要を説明する。
 「日本遊廓一覧」上村行彰著『日本遊里史』春陽堂、1929年〔藤森書店復刻、1982年〕巻末附録、第一「日本全国遊廓一」より)には、兵庫県所在の遊廓として、福原(神戸市福原町)、新川(神戸市兵庫今出在家町)、浦町(武庫郡西宮町)、新地(明石郡明石町)、梅ヶ坪(姫路市梅ヶ坪)、湛保(飾磨県湛保町)、高砂(加古郡高砂町)、室津(揖保郡室津村)、漁師町(津名郡洲本町)、池上(多紀郡八上町)の10ヶ所が記載されている。ここでは、さしあたり福原遊廓を中心に、明治前期の遊所の沿革をみていくことにする。

福原遊廓開設関連年表

慶応3年(1867)6月 遊廓開設を含む居留地開設にともなう諸対策上申、許可(柴田剛中)。
慶応4年(1867)2月 専崎弥五平ら10名連署で遊廓設置出願。
慶応4年(1867)2月19日 遊廓設置を許可につき隠売女禁止。
慶応4年(1867)5月1日 福原遊廓開業(開業日には諸説あり)。
明治4年(1871) 京都―神戸間鉄道敷設にともない神戸停車場設置につき福原遊廓移転(新福原遊廓)。
明治5年(1872)10月25日 芸娼妓解放令公布につき芸娼妓「解放」を申し付ける。
明治5年(1872)11月 「遊女貸座敷規則」「娼妓芸妓規則」公布。
明治6年(1873)6月16日 兵庫・神戸両市中における娼妓・芸妓・貸座敷営業区域の制限撤廃。
明治8年(1875)2月13日 第2区内の貸座敷営業区域の再限定。
明治11年(1878)5月7日 第1区内の貸座敷営業区域の再限定。

※村田誠治編『神戸開港三十年史』乾・坤(開港三十年紀念会、1898年)、須田菊二『福原遊廓沿革誌 全』(福原貸座敷組合事務所、1931年)などから作成。

 

1.近世の兵庫県の遊所

 兵庫県には、開港以前に公許の遊廓は存在しなかったが、兵庫津には遊所が存在した(以下『新修神戸市史』歴史編Ⅲ近世)。兵庫津が幕府領となってからのことである。明和7年に駅所助成の必要から許可された15軒の茶屋株は、遊興的な料理茶屋であったが。天保改革で廃止となった。一方、もと入り江であった佐比江の埋め立て地である佐比江新地は遊所として栄えた。寛政10年刊の『摂津名所図会』にも「兵庫髷 紅おしろいの花の顔 佐比江といえど 日々に新し」とある。
 安政6年、船着場であり西国街道でもあるとの理由で、小廣町・神明町・逆瀬川町・東柳原町・西柳原町の旅籠屋に飯盛女を置くことが許可された。旅籠屋1軒につき飯盛女は2人ずつと定められたが、実際には飯盛女の人数は規定より多かったと推察される。長州征伐の際、長州征伐にむかう軍勢を兵庫で止宿させる宿屋とするため、佐比江町をはじめ、真光寺前、土手下、礒之町に展開していた茶屋を大阪の与力勤番所が命じて一箇所にまとめた(『福原遊廓沿革誌』)。長州征伐が終わると「表渡世」の旅籠屋が公認されたが、実際には再び飯盛遊女屋を営んだ。与力勤番所もそれを黙認し、明治維新をむかえた(同)。
 慶応3年(1867)6月、兵庫奉行・柴田剛中が、居留地開設にともなう諸対策を幕府に上申したとき、外国人向けの旅籠屋・遊廓の設置を提案し、許可された。これによって、福原遊廓の開業が準備された。
 柳原町の飯盛女は、慶応4年(1867)5月の福原遊廓開業以後も、その営業は認められた。一方で、煮売り料理屋、貿易商人等に抱えられて「隠売女」をおこなうもの、洗濯女、「チャラ」などは厳重に取り締まられた。明治初年の神戸における遊所統制は、神戸開港と居留地開設を契機に設立された福原遊廓のみを公認の遊女屋渡世とし、それ以外については、飯盛女などの表向きの生業を公認してその売春行為については黙認し、その他の売春=隠売女は厳禁するというように、近世以来の遊所統制のあり方を踏襲していた。

 

2.兵庫県の芸娼妓解放令

 芸娼妓解放令をうけて兵庫県令神田孝平は、明治5年(1872)10月25日、芸娼妓の「解放」を命じた。まず、年季奉公人の「解放」について、遊女・飯盛女・食売女はもちろん、養女の名義で年季を定めて抱えられている芸妓・酌取に至るまで、年季証文を県庁へ差し出させ、借金を無効とし、翌月10日までに親族へ引き渡すこととした。旅費のないものには楼主が旅費を支給して引き取らせた。また、転売の可能性を想定し、引き取るべき親族がない場合は委細を取り調べ、とりわけ人主が女衒である場合にはその人主への「解放」は禁止とした。ただし、「本人望」によるならば、遊女・飯盛の稼業を許可するとした。
 営業場所は、遊女・揚屋は福原に限り、飯盛女は柳原にある旅籠屋のうち、従来許可を得ていた旅籠屋のみとし、それ以外の営業を禁じた。ここでは、営業場所は区別されているものの、遊女と飯盛女は併記され、すなわち、これまで黙認の存在であった飯盛女は公認となった。
 つづいて同年11月、兵庫県は「遊女貸座敷規則」「娼妓芸妓規則」を公布した。これによって遊女屋は貸座敷と改称し、鑑札を得た貸座敷業者が「本人望」の娼妓・芸妓に営業場所を提供することとなった。

 

3.神田孝平による明治六年の市中散在策

 明治6年(1873)6月、兵庫県令神田孝平は神戸・兵庫両市中における貸座敷営業区域の制限を撤廃した(「明治六年法令」)。明許散娼ともいえるこの政策は、多くの府県が明許集娼を遊所統制の基本的方針として採用するなかで、きわめて特殊な政策として注目される。明治六年法令の意図は、開港場であることと不可分である。すなわち、居留地経営の実際において隠売女を取り締まることは不可能であり、遊廓外にひろく展開する性売買の実情に即して神戸・兵庫両市中での営業を許可し、法令と実態の齟齬を解消することがその統制にたいして現実的であると判断されたのである。芸娼妓解放令以後、娼妓は(形式上)独立の営業主体であり、遊女屋ではなく戸長が娼妓を管理することになっていたから、娼妓の営業を遊廓内に限定する必然性は失われていた。また、娼妓の営業を遊廓内に限定することは、芸娼妓解放令の趣旨に悖るものであるというのも、市中散在策を実施する論拠となった。
 ところが、明治8年(1875)以降明治六年法令は変更が加えられ、明治11年(1878)、神戸・兵庫両市中における売春営業は再び福原遊廓内に限定されることとなる。その背景には、検黴制度の導入とそれと軌を一にする売春への蔑視・賤視観の醸成があった。

 

4.明治10年代以降の展開

1)新川遊廓の成立

 明治13年(1880)、神戸に新たな遊廓が設置された。新川遊廓である。同年4月、兵庫新川の開発者の一人であった嘉納治郎右衛門は、「土地繁盛」の目的で新遊廓設置を出願した。許可を得ると、井上善兵衛(北逆瀬川町)、竹中清七らの協力を得て、9月に竣工した。岡本米を筆頭に、山口三之助、柏木健次郎、井上鶴、木村庄次、小西伊介、青木仁平、八田官次郎、藪本宇三郎、梅澤梅、脇富某ら13人が貸座敷を開業した。くわえて、福原遊廓から五井庄兵衛(三巴楼)の出店もあった。遊廓惣代に井上善兵衛を選挙し、遊廓副取締代理に吉村健八を任命した(『神戸開港三十年史』坤)。

2)1920年代の福原遊廓

 その後の福原遊廓は、統計データが存在する明治40年以降、96軒をピークに90軒超の貸座敷が立地した。神戸市統計書から1920年代のデータを一部抽出すれば、次のようである。貸座敷数はほぼ一定であるが、娼妓の数は増加し続け、10年間で約1.3倍となった。遊客数についてみると、娼妓数に比例して増加しており、昭和4年(1929)にピークを示した。娼妓一人あたりの遊客数は、単純に計算して1920年代前半には、1日平均1.1~1.2人であったものが、1.3~1.4人に漸増している。1920年代を通じて拡大していくようすが、概略ながらみてとれる。

  貸座敷数  娼妓数   遊客数  
大正10年(1921) 91 1,069 507,182
大正11年 91 1,077 496,393
大正12年 90 1,181 472,176
大正13年 92 1,190 527,129
大正14年 93 1,278 529,665
昭和元年 93 1,283 615,720
昭和2年 93 1,288 615,720
昭和3年 93 1,323 676,850
昭和4年 93 1,334 690,097
昭和5年 93 1,349 632,849

注)『神戸市統計書』(神戸市文書館蔵)より作成。

(人見佐知子)