山口県所在の遊廓の沿革と概要

 山口県の遊廓・遊所の発展は、長州藩の経済活動を支えた海運業の発達とともにあった。17世紀半ばに西回り航路が開発されて以降、赤間関・中ノ関・上ノ関などが北前船の寄港地として発展し遊廓も形成された。天保改革期に作成された『防長風土注進案』にも「茶屋」・「湯女」の存在が記されている。芸娼妓解放令の後には、解放令に則った政策がとられるとともに、瀬戸内海沿岸部5ヶ所と萩の1ヶ所において遊女渡世が許可された。


 ここでは、山口県内に所在した遊廓・遊所について、①)明治以前、②明治・大正・昭和初期、③戦後の三期の時代区分を設け、各時期の遊廓に関する主要事項を年表形式で示した上で、遊廓の概要を説明する。これとは別に、「B 詳細情報」として史料所在情報、触・布達年表、参考文献・論文一覧を作成した。参考文献引用の箇所には番号をつけ、文献名は最後に明記することにした。同じ文献を再度引用した場合は、(著者名、出版年)で表示した。なお、情報は、今後、随時加筆・修正していく予定である。

 『日本遊廓一覧』(上村行彰著『日本遊里史』春陽堂発行、1929年刊(藤森書店復刻、1982年刊)巻末附録 第一『日本全国遊廓一覧』より(健康診断病院名など一部省略))には、山口県所在の遊廓として27カ所が記載されている。

 

山口県下の遊廓一覧 (『日本遊廓一覧』より)

下関市稲荷町    豊浦郡彦島村字福浦 玖珂郡岩国町米屋町 都濃郡徳山町   
下関市裏町 豊浦郡小月村 玖珂郡柳井町 都濃郡下松町
下関市西之端町 豊浦郡清末村 熊毛郡曽根村 吉敷郡山口町
下関市豊前田町 豊浦郡神田下村 熊毛郡上関村 吉敷郡小郡町
下関市竹崎町 厚狭郡船木町 熊毛郡室津村 阿武郡萩町
下関市今浦町 厚狭郡須恵村 熊毛郡室積村 大津郡仙崎町
下関市新地町 厚狭郡宇部村 佐波郡防府町  

 

 下関市7ヶ所、豊浦郡4ヶ所、厚狭郡3ヶ所、玖珂郡2ヶ所、熊毛郡4ヶ所、佐波郡1ヶ所、都濃郡2ヶ所、吉敷郡2ヶ所、阿武郡1ヶ所、大津郡1ヶ所(昭和4年(1929)当時の行政区画)の遊廓が存在した。下関市中心部および瀬戸内海側に遊廓地が多く存在するのは、近世以降に発達した海運業の影響によるものが大きいと思われる。以下、下関市を中心に遊廓・遊所の沿革を記す。

1.明治以前

 長州藩(本藩・各宰判・長府藩・清末藩・徳山藩)の遊廓・遊所の発展は、長州藩の経済活動である海運の発展とともにあったといっても過言ではない。
 17世紀後半、西廻り航路の整備にともなって、支藩の長府藩赤間関(現下関市)や岩国藩柳井津(現柳井市)などは経済活動が活発となった。長州藩本藩には浜崎港(現萩市)があったが、大型廻船が山陰沖を一気に通運することや、越ヶ浜など浜崎港以外の浦でも交易を許可し口銭銀を徴収するようになり、享保期以降は浜崎港へ寄港する船が減少しはじめた。(小川-1996年、木部-2013年)

1)下関

(赤間関)長府藩領

 (『下関市史 藩制-市制施行』より。以下出典記載のないものはすべてこれによる。)
赤間町の北側の稲荷町は、『好色一代男』・『色道大鏡』にもみえる遊女町。下関の遊女起源は、壇ノ浦合戦での平家滅亡により残された官女たちを発祥の由来とするものが多く語られる。(『日本歴史地名体系』平凡社)
 元禄7年(1694)の赤間関は、戸数1191軒・人口5142人、これに加えて遊女が87人。寛政4年(1792)には2262軒・8299人と人口増加がみられるが、このうち遊女は112人(『毛利家乗』巻之二十三では142人)存在した。稲荷神社が町名の由来といわれ、揚屋主・遊女・禿・三味線師匠などで構成され、天保年間には大坂屋・鞆屋など9軒の揚屋が存在した(伊藤家文書「人別帳」)。長府藩藩士による傾城買いや踊り見物、遊女の外出を禁止する法度が何度も出されたようだ。稲荷町の西側の裏町には茶屋・料理屋が立ち並んだという。
 潮流が激しく変化する関門海峡は、潮流変化の見極めや航行の休憩、また廻船の修繕などのため、日本海側からも外海からも廻船が寄港する拠点となっていた。そのことが稲荷町遊廓が繁栄した一因とも考えられる。
 幕末~明治にかけて稲荷町は衰退していき豊前田遊廓が台頭してくる。もともと豊前田は稲荷町に対して惣稼(下級遊女)の町といわれ(『日本歴史地名体系』平凡社)、長府藩家老細川家給領地で、惣稼を抱えた置屋が多くあったという。北前船の乗員相手に小舟で出向いて営業する惣稼は、沖女郎・浜出女ともよばれた。歌川広重の錦絵「長門下の関」にはその様子が描かれている。
 天保10年(1839)正月には、浜女(惣稼のことと思われる)に関する触が出されている。(『下関二千年史』・『下関市史』)浜女たちは豊前田町の遊女屋に所属している者が多く、触は浜女を上陸させることを禁じたもので、船宿に浜女を引き入れて営業させる違法行為があったようだ。違法という背景には、稲荷町遊廓の営業に差し障りが出ること、また他の問屋の客船を横取りする行為の温床となることが考えられる。(『下関市史』)
 豊前田遊廓は、京都-赤間関間鉄道が開通した明治34年(1901)頃に全盛となったが、戦災により焼失した。(『日本歴史地名体系』平凡社)

(今浦開作)萩本藩領

 (『下関市史 藩制-市制施行』より。以下出典記載のないものはすべてこれによる。)

 伊崎新地とも呼ばれ、赤間関に隣接する竹崎浦・伊崎浦(ともに長府藩領→清末藩領)の間に位置する。もとは長府藩領の今浦村の一部を、享保年間(1716~1735)に萩藩の豊田金道村(現菊川町)と交換した。当時響灘沿岸で頻繁におこった唐船打ち払い事件をきっかけに、海防強化が必要となったためである。
 萩藩領となった伊崎新地では、築港・町割りを整備し新興商人が進出、また流通に力を入れるため撫育方・越荷方役所を設置した。新地芝居固屋や五軒屋と呼ばれた宝来屋・紀ノ国屋・江戸屋・吉原屋・泉屋の新地遊廓が築かれた。
 『防長風土注進案』には、「茶屋并ニ諸国廻船小宿共ニ 六拾九軒」、「茶屋揚酒屋 四軒」、「茶屋女置屋 五軒」があった。「旅人女」が104人いた記載があり、売春を稼業とする「湯女」ではないかとの指摘もある。(『防長風土注進案』9吉田宰判 今浦御開作、上関宰判・吉田宰判・用語解説「身売り」)
 ここでの「茶屋并ニ諸国廻船小宿」は、遊女を揚げて遊ぶ「茶屋」と諸国廻船の乗員の宿泊船宿のことであり、茶屋と船宿が遊所的要素のある一画を築いていたのではないかと思われる。「茶屋揚酒屋」も同様に考えられ、「旅人女」104人は遊女・芸者・芝居役者だったといえる。伊崎新地の遊所的性格は、諸国廻船を伊崎新地へ引き寄せ寄港させるためのひとつの要素であったと考えられている。

(肥中・特牛港)

 萩本藩先大津宰判領 (「C主要史料」の史料5・6・7参照)
 肥中港は天然の良港といわれ、萩から長府に至る山陰道の道筋に位置し、大内氏時代には北浦の重要な港であった。大内氏の拠点である山口町道場門前と、肥中をつなぐ街道を肥中街道といい(『日本歴史地名体系』・『豊北町史』)、さらに西回り航路が開かれると、江崎―須佐―萩―仙﨑―肥中(幕末は特牛)―下関といった港が航路の拠点となっていった。寄港地が肥中浦から特牛浦にうつっていった経緯は、肥中浦の海底に堆積物がたまり大型船が入港できなくなったことが考えられ、港の役割が天保期には特牛に移っていったという。(『豊北町史』)
 「鯨一頭捕れば七浦にぎあう」といわれた捕鯨は、長門の瀬戸崎浦・通浦が有名だが、肥中・特牛浦(神田地区)においても鯨網組が組織された。鯨網組は地元有力者により組織され、沿岸近くにきた鯨を捕獲するもので、浦々と共同で鯨網組を組織することもあった。地元以外の有力者が資本提供したこともあったようだが、肥中・特牛では安政期には鯨網組は姿を消した。藩の育成策が不充分で、地元有力投資家がおらず、さらには漁場が萩藩と長府藩に分かれていて漁業権の紛争があったことも要因となったと言われている。(『豊北町史』)
 肥中には「肥中茶屋」があり、宝暦13年(1763)に肥中浦年寄足立次郎右衛門と安井半右衛門が茶屋1軒で「居風呂」「蕎麦」を提供し、そこに「垢かき女」5~6人を置く旨を願い出ているのが始まりとされる。(『豊北町史』)
 以下では、野村忠芳「特牛港の湯女について―中川家文書を中心として―」(『山口県地方史研究』第21号、1969年)を参照しつつ、論文中で検討されている中川家文書の肥中・特牛浦の茶屋に関わる史料について、あらためて検討したい。
 宝暦13年(1763)願書(史料5)には以下のように記されている。肥中・特牛両浦は漁業で成り立っているところではなく難渋している、良港なので他国廻船が多く寄港するのだが貧窮の所ゆえ諸商売もない、茶屋を許可されれば相応の商売ができ、諸廻船も多く寄港し、地元でも商売の競争が盛んとなることが見込まれる。茶屋株を受け負えば、地元の生計に関わることでもあるので、ぜひとも許可して欲しい旨を、肥中浦年寄足立次郎右衛門と安井半右衛門から庄屋代の多賀孫之進へ、さらには大庄屋藤野治左衛門から青木平右衛門(代官?)へ願い出ている。
 それから31年後の寛政6年(1794)にも茶屋に関する願書(史料6)が出されている。肥中・特牛両浦は浦石61石余りで鯣を上納していたが、水夫や浦方へあてた上納物は「余分之儀」つまり余分な負担となっていた。以前は鯨組があり繁昌していたが、今はそのようなこともなく(?史料6、解釈不明)次第に困窮しているので、廻船繋船相手の繁昌のため、宝暦年中に茶屋1軒を願い出のとおり代官所が公認し、それ以来茶屋は存続、浦方が商売を競い合い有難いことであると、宝暦13年(1763)茶屋株願書以来の様子が記されている。
 ここで、宝暦13年(1763)の願書による茶屋株が申し出のとおり公認されていたことがわかる。茶屋が存在することで、肥中・特牛浦に寄港する廻船が増え、廻船の乗員により茶屋が賑わい、茶屋周辺での諸商売が生まれ、浦の生活も潤ってくる。浦の景気対策として茶屋1軒の存在は大きかったのではないだろうか。
 引き続いて、同願書には出店のことが記されている。明和年間に1軒の茶屋では行き届かなかったため、出店として1軒が公認されたが、5~6年で経営不振(「世話人仕入不宜」「諸色高直ニ而損亡有之、中絶」)となった。今回赤間関伊崎町の「蛭子屋庄助」という者が、この中絶した出店株を「取立」(経営し)たいと願い出ている。地元にとっても手数料を取ることができ生計の足しにもなるため、是非ともご許可願いたい、という願書である。肥中浦年寄九郎右衛門と特牛浦年寄彦左衛門が庄屋多賀百助へ、さらには大庄屋久保源兵衛から藤本伝兵衛(代官?)へ願い出ている。
 明和年中には、宝暦13年(1763)許可の茶屋1軒では賄いきれないほどの客が来ていたことが推測され、その対策として出店を1軒公認されている。ただ、この出店は5~6年は存続できたが、世話人(請負人か)のことでなにか問題があり(「世話人仕入不宜」)、当時の物価高も重なり(「諸色高直ニ而損亡有之」)、出店株は中絶してしまったのである。そこにこの出店株を経営したいという赤間関伊崎町の蛭子屋庄助があらわれた。赤間関伊崎町といえば伊崎新地があり、茶屋経営者も多くいたと思われる。(蛭子屋庄助が何者かはまだ特定していないが、赤間関には有力商人が多く、それらと肥中・特牛浦の関係は興味深く今後の課題としたい。)おそらく出店周辺にも諸商売が成り立っていたであろうし、蛭子屋から手数料を取ることができ、それらを加味すると浦にとって悪い話ではなかったのであろう。
 さらに39年後の天保4年(1833)には最初に公認された茶屋株(古株)と出店株の経営について地元での取り決めが話し合われている。(史料7)
 史料7の内容も順を追って見ていくことにする。宝暦年中に茶屋1軒公認され、さらに明和年中に出店株1軒が認められたが其後中絶。宝暦年中に公認された茶屋は、近年下関の「順蔵」というものが経営したが続かず、天保4年5月に下関へ引き取ってしまった。しかし中絶していた出店株については、両浦は下関の北国屋甚左衛門に5ヶ年(天保4~8年か)の約束で請け負わせ商売させている。ところが、古茶屋株(最初に公認された茶屋)は、「河野源兵衛」(地元か)らが(おそらく「順蔵」に)用立てた貸銀が返済されておらず、河野らには古茶屋株をなんとかしたいという願望があったようだ。天明7年(1787)の経営者「茶屋喜左衛門」・請人「喜八」以来の「締り書物」もあるため、河野らが諸世話をするという願書が出されたらしい。出店株を再興させようという浦方と、古茶屋株を存続させて貸銀を清算したい河野らとの間で話し合いがもたれた。その出入りの詳細は不明であるが、内済の結果が4項目にわたって記されている。

 ①明和年中御免の出店株を取り立てるつもりだったが、元は宝暦年中御免の茶屋株のおかげで出店株がある。古茶屋株は両浦惣中の茶屋株であることは紛れないことである。この度、「北国屋甚左衛門」へ(茶屋株を)5か年の約束で経営させ浜立銭として8丸文銀350目(『豊北町史』)を両浦年寄へ支払うこと、将来も河野らに世話を引き受けてもらうこと、茶屋の繁昌・不況にかかわらず浜立銭350目は定法とすること、とした。

 ②河野らが諸世話を引き受けたからには、茶屋が営業廃止になっても浜立銭は両浦へ支払い、万一不納の場合は、地元(両浦惣中)が茶屋株を引取り、以後は河野らは関わらないこととする。

 ③「北国屋甚左衛門」へは両浦から仕入銀30両を貸し渡している。今後河野らが世話を引き受けているので、元利とも両浦へ返済すること。

 ④今回、古茶屋株を取り立てたので出店株を取り立てることはあってはならないが、万一茶屋が繁昌し地元の折り合いがつけば「役座」(勘場の意。『豊北町史』)へ申し出て取り立てることもある。その際、古茶屋の方から不服を申し立てることのないようにする。
 以上のような内済をとりつけ、出店株を再興させようとした両浦と古茶屋株を存続させようとした「河野源兵衛」らの出入りは折り合いをつけた。

 この史料7は、後々のために地下惣代として両浦の6名が折り合い事項を記し河野源兵衛宛に送り、両浦役人も確認した証文となっている。
 まず、史料冒頭には「特牛浦茶屋株之儀ハ」とあり、宝暦13年(1763)以来の茶屋と明和年中の出店は、特牛浦に設置されたことがわかる。ただし、宝暦13年(1763)の願書は肥中浦の年寄2名の署名で願書が出されており、明和・天保の史料は肥中・特牛両浦の年寄の署名であるため、茶屋・出店の世話は肥中・特牛両浦でおこなってきたと考えられる。
 この特牛浦の茶屋株(古茶屋株)は、下関の「順蔵」が経営していたが、天保4年7月の時点では経営者がおらず、茶屋株の世話をしてきていた「河野源兵衛」らは貸付銀が返済されず困っていた状況があったのである。ところが、この年の夏から、両浦の地下中は出店株の経営を下関の「北国屋甚左衛門」に請け負わせ商売させていたため、古茶屋株を世話している河野らからすると、「茶屋発端之株」である古茶屋株から立て直すべきだと意見したのである。また、元々は古茶屋株も「両浦惣中之茶屋株」に紛れないのだが、河野らが経営者に貸し付けをおこなっていたこと、さらに天明7年以来の経営にかかわる書類を所持していることから、河野らが古茶屋株の請人であるという正当性が証明されたのである。
 宝暦13年に公認された際の茶屋株は、肥中・特牛両浦の商売発展・景気対策として設置された側面が強く、特定の人物が請人となるというよりは両浦惣中が請人だったといえる。しかし、天保期には両浦惣中の茶屋株ではあるが、「河野源兵衛」ら特定の人物が請人となり茶屋株への関わりを深めていたといえよう。
 出店株を経営するはずだった下関の「北国屋甚左衛門」は、茶屋を5年契約で任されることとなり、浜立銭350目を両浦へ支払うことを条件に、将来にわたって河野らが古茶屋株の世話を引き受けることになったのである。よって河野らは、北国屋へ地下から貸し付けていた30両も早々に元利とも両浦へ返済しなければならなくなった。さらには茶屋の経営状態にかかわらず浜立銭が不納となった場合は古茶屋株は地下が引き取る、今後茶屋が繁昌し出店株を取り立てることになった場合も不服を申し立てないという条件もあり、両浦地下にとって有利な条件で折り合いがつけられたといえよう。
 肥中・特牛浦に地元以外の資本が入ったことが明確に分かる最初のものは今のところ、寛政6年に中絶していた出店株の経営を願い出た下関(赤間関)の「蛭子屋庄助」である。この出店株は、蛭子屋が弘化2年(1845)(過去帳(「戎屋」))と明治5年に「蛭子屋庄助」が経営したことがわかっている。(『豊北町史』)寛政6年に下関から来た「蛭子屋庄助」の系統が再び継いだことがわかる。(『豊北町史』)(天明7年には茶屋を経営している「茶屋喜左衛門」については、出所が不明)
 下関からの資本が入り、両浦へ支払うべき浜立銭という手数料は、遊女たちの働きによるものであることは確かであり、周辺商売が発展し両浦が活性化した根底には、多くの遊女の辛苦があった。
 また、『豊北町史』によると、天保13年の過去帳に「花屋」の名が見え、明治5年には古茶屋株は花屋喜左衛門(大浦の海士)が経営している。(『豊北町史』)肥中誓念寺過去帳では、明和7年に「茶屋玉鶴」、安永6年(1777)に「特牛茶屋紅梅」が確認できるらしい。

2)上関 (上関浦・室津浦)萩本藩上関宰判(出典注記のない記載はすべて『上関町史』より)

 上関浦・室津浦では、蔵米の廻送や西回り航路の開発により、近世中期以降、流通経済がおおいに発展した。両浦での職業構成は、商人が多く、農業や漁業によらない経済収入が大きかったようだ。
 『防長風土注進案』では、天保改革期の長州藩内の風土・産業などが詳細に記されている。売女渡世の者についても、「茶屋」「湯女」として見られる。上関宰判上関浦方の記載には本百姓の者が関わる「茶屋」が1軒、門男(もうど。本百姓に対する農民の階層のひとつ。田畑を持つか持たない程度の小農。『防長風土注進案』用語解説「門男」より。)の者が関わる「茶屋」が2軒、「茶屋手代」と言われる男が5人、「茶屋湯女」が54人とある。正月2日晩には「茶屋湯女」が新年のあいさつ回りに近隣の氏神・寺院・親類知人を訪れる風俗があったことが記されている。(『防長風土注進案』上関宰判)
 『注進案』にあるように、上関浦には茶屋がおかれ遊女が存在した。宝永6年(1709)室津浦では、港の繁栄策に茶屋と遊女を置くことを代官に願い出たが、許可されなかったようだ。正徳4年(1714)には上関浦の2軒の茶屋の内1軒を室津へ移転させるか、上関の遊女6~7人を毎月10~15日室津へ出張させるよう願い出た。上関浦はこれに反発したが、遊女の出張は認可されたらしい。室津浦では出張営業はおこなわれていたが、表向きは茶屋・遊女はいないことになっていた、と町史に記述されている。
 文化期には茶屋の経営不振が続いたらしい。越荷経営の不振期にもあたり来航船も減少したようだ。毎年9月8・9日の弁天祭に「上関女歌舞伎」として有名な湯女踊が奉納されていたが、この不振を機に中止となった。
 「湯屋」については、上関六軒・室津五軒あったようだが、『上関町史』の記述には、「湯屋」は公認の遊廓であったことが記述されている。遊女を「湯女」ともいうことを考えると妥当であると思われるが、今後の検討課題としたい。

2.明治・大正・昭和戦前期

 明治5年(1872)10月に太政官布告「芸娼妓解放令」が出されると、山口県は遊女同様の営業をしてきた芸娼妓(芸者・遊女・茶汲女・総嫁・飯盛)の人員数を確認するため、抱主に芸娼妓の名を調べさせ、各支庁会議所より遊所と人員数を提出するよう命じた。今後一切の新規営業、現人員数の増員を禁じ、芸娼妓たちが改業・死亡した場合は届け出、各支庁会議所で人員数を書き留めることとした。
 同月には婦女子を「遊女芸者并宿場飯盛茶汲女或ハ洗濯女其他種々名目ヲ付ケ」て身売奉公に出すことを一切禁止した。すでにこのような形で奉公に出ている者は抱主と示談し、「成丈ケ速ニ引戻」すこととした。
 抱主との「示談」、「引戻」しの過程についても同月中に布達が出されている。その布達の前文では、抱えの婦女は親類等があれば「親分請人」の立会のもと引渡すこと、身代金やその他の金銭関係は、本人や親族と抱主の相対示談はもちろんだが、奉公証書を出し金銭の申立などをして婦女を束縛するようなことは禁止、金銭関係の有無に関係なく全て解放するよう命じている。同布達別紙の一つ書きによると、前文の趣旨を徹底させるための具体的な方法が記されている。①13歳以下は身元や親類に引き渡すことは勿論であるが、見寄りのない者は本人の希望があれば引き続き奉公すること、(娼妓芸妓という)「身分へ掛候金銭」については取り立てないこと、②抱主所持の遊女等の年期奉公証文は副戸長が残らず取り上げ支庁会議所へ差し出すこと、③親元などに帰っても身を立てる方法はないが改業し(抱主の元での)居住を望む者はそこに入籍すること、④抱主の元から離れて改業・寄留奉公を希望する者は吟味の上許可する、⑤13歳以下の者で身寄りがなく別の奉公を望む者はこれを許可し、病身や幼年で別の奉公もできない者は「飢餓難渋」に陥るため、「救育場」を設けるとした。
 山口県の芸娼妓解放の方法は、太政官布告の芸娼妓解放令に則り芸娼妓の「一切解放」および希望者の「改業」を全面に出し、司法省の布告のごとく金銭貸借も取り上げないことを掲げ、さらに、解放により行き場に困る病身の芸娼妓や身寄りのない幼年の者の保護についても、「救育場」設置という対策を講じている点が特徴的であり、山口県は積極的に政府の方針に対応しようとした面が見られる。
 しかし、②の但し書きには、貸借訴訟は一切取り上げないが、「地主ノ恩議」を受けたことを鑑みて不都合のないような決着を求めている。「地主ノ恩議」が何を指すのかは不明だが、この但し書きが抱主たちの逃げ道になったであろうことは容易に想像でき、山口県の芸娼妓解放の限界とも思われる。
 次に、やはり同月に出された布達「娼妓解放取計規則」を見ていく。より具体的な対応が見て取れる。①解放により自由になった上は縁故に引取り、身寄りなく本人が「遊女所業」を望めば、実情を書き記し、本人・親類・組合(親類がいない場合は本人・組合請人)の連印をもって願出、取り調べの上許可する、②芸娼妓等抱えの渡世の者はもちろん改業すべきだが、差し障りがある場合は貸座敷渡世を願出ること、貸座敷渡世は定められた所内は許可する、③遊女渡世の者が他街や沖合に碇泊中の船に出向くことや遊客に誘われても他街へ一泊することは禁止、④遊女渡世は以下の定められた場所に限り許可されることとなった。稲荷町表裏(赤間関)、中ノ関(岩国新湊三田尻部)、室積(熊毛部)、室津・上ノ関(上ノ関)、越ヶ浜(萩部)の6ヶ所での営業が許可され、遊女渡世の者はそこ以外での居住を禁じられた。なお、近世以来つづく他の遊所については、追って詮議することとされた。⑤遊女渡世の揚代は来客と遊女の相対で決め、貸座敷主がその駈引をしてはならない、⑥遊女渡世を希望する者は、父兄や親類の連印の上請人を立てること(父兄不在の者は親類知己を請人に)、⑦税金として1人あたり毎月金1両ずつ納めること、⑧娼妓芸妓等総じて「遊女」と呼称する、養女・下女・洗濯女等の名目で遊女渡世する者は厳禁、親類・組合・近隣にまで落ち度申し付ける、⑨遊女渡世の新規営業は厳禁、⑩太鼓持も改業すること、⑪遊女渡世免許地以外での営業は厳禁、⑫「芸娼妓解放令」の趣意を、遊女渡世の者どもへ抱主より詳しく説明すること、関係者が売女を引取り遊女渡世させることは厳禁、といった規則である。 
 山口県に特徴的な現象として興味深いのは、碇泊中の船に出向いての遊女渡世が禁制されている点である。(③)17C後半の西回り航路整備にともない北前船が寄港し、「惣嫁船」による遊女渡世が盛んとなった。この「惣稼船」による営業を明治5年に禁止したことは(③)、明治初年段階においてもなお船に娼妓を乗せて寄港する船客相手に遊女営業がおこなわれていたことを物語っている。これを禁止しなければ統制がとれないほどの状況があったと思われる。
 明治9年(1876)2月に「貸座敷渡世概則」と共に布達された「遊女営業概則」には、遊女免許地が指定されている。第1大区大島郡地家室・小松開作、第4大区玖珂郡柳井町、第5大区大島郡上ノ関・熊毛郡室津・水場、第6大区熊毛郡室積、第7大区都濃郡遠石町、第9大区佐波郡中ノ関・宮市町、第10大区吉敷郡山口町、第15大区豊浦郡赤間関(稲荷町・裏町・新地・竹崎・豊前田)・福浦、第17大区同郡特牛浦、第20大区阿武郡越ヶ浜、以上15か所での遊女営業が許可された。このうち、明治5年10月に営業指定地とされた6か所も引き続き免許地とされた。

 

(肥中・特牛港)萩本藩先大津宰判領 (『豊北町史』より)

 明治5年には特牛浦の茶屋2軒・遊女22人・置屋2軒。芸娼妓解放令の後も引き続き遊女渡世を願い出るものが多かった。貸座敷税は年別50銭に対し、遊女税は月別1円と酷なものであり、遊女の税金は置屋の親方が取りまとめ、貸座敷税と一緒に特牛浦用掛から戸長へ納めたという。
 明治34年には県営神田娼妓健康診断所が設けられた。昭和16年には遊廓が4軒に増えたが、戦時中に廃業したものが多く、昭和31年の売春防止法の成立とともに特牛遊廓は消滅した。

2)上関 (上関浦・室津浦)萩本藩上関宰判(出典注記のない記載はすべて『上関町史』より)

 明治22年(1889)には上関・室津両浦の商人は、回漕店27軒・仲買商33軒・小売商147軒・旅籠12軒・湯屋17軒、その他飲食店、遊女屋が軒を連ねていた。
 上関には娼妓健康診断所が設置され、大正11年(1922)には町中や海岸沿いにちらばっていた遊廓を1ヶ所に集め、上関は福浦、室津は西町に集約した。
 昭和期には、上関に7軒、室津に10軒の遊廓街があったと言われる。

(佐藤敦子)

〈参考文献〉

(1) 小川国治 「西廻り海運と港町の整備」(『転換期長州藩の研究』、1996年、思文閣)
(2) 木部和昭 「関湊繁栄録―近世下関の発展と中継交易―」(『山口県史研究』第21号 県史講演録 、2013年)
(3) 野村忠芳「特牛港の湯女について―中川家文書を中心として―」(『山口県地方史研究』第21号、1969年)
(4)『防長風土注進案』
(5) 『下関市史 藩制-市制施行』(2009年、下関市市史編集委員会)
(6) 『豊北町史』(1972年、豊北町史編纂委員会)
(7) 『豊北町史 二』(1994年、豊北町史編纂委員会)
(8) 『上関町史』(1988年、上関町史編纂委員会)