京都府所在の遊廓の沿革と概要

 京都では、江戸・大坂と同様、近世初頭に唯一の公認として島原遊廓ができた。17世紀から18世紀にかけての市中東部を中心とする新地開発に伴い、北野、祇園などに茶屋町が形成され、島原は早くも18世紀前半から長期的な営業不振にあえいだ。18世紀末の寛政改革に際して、新地の4か所に島原からの出稼を名目とする遊女屋営業が免許され、島原は「茶屋年寄」として出稼地からの上前を取得した(差配体制)。差配体制は、天保改革期の一時廃止をはさみ、明治3年まで継続したが、同年の廃止で島原の優位は最終的に解体した。明治3~5年に、京都府は町組を単位とした遊廓統制を採用し、芸娼妓解放後の授産施設として設置された遊所女紅場が、祇園など、いくつかの場所で遊廓地の土地所有・経営主体に成長し、京都固有の遊廓社会が展開していくことになる。


 昭和4年(1929)の上村行彰『日本遊里史』付録「日本全国遊廓一覧」によると、京都府内には、以下のような16か所の遊廓(貸座敷業免許地)が存在した。

 

No. 遊廓所在地 俗称 貸座敷数 娼妓数
1 京都市上京区 上七軒 33 2
2 京都市上京区 北新地 112 470
3 京都市下京区 祇園甲部 408 86
4 京都市下京区 祇園乙部 215 262
5 京都市下京区 宮川町 359 314
6 京都市下京区 島原 93 237
7 京都市下京区 先斗町 169 33
8 京都市下京区 七条新地 208 988
9 紀伊郡伏見町 中書島 67 234
10 紀伊郡伏見町 北恵美須 13 51
11 綴喜郡八幡町 橋本 27 60
12 加佐郡舞鶴町 朝代 41 53
13 加佐郡舞鶴町 加津良 25 78
14 天田郡庵我村 猪崎 54 127
15 加佐郡新舞鶴町 龍宮 34 205
16 興謝郡宮津町 新濱 41 42
合計 1,899 3,242

昭和4年当時の京都府内の遊廓(1929)

 以上のうち、京都市以外の伏見・八幡や舞鶴・宮津などの遊廓8か所については、当面割愛し、本項では、京都市内の遊廓8か所について以下では述べる。なお、幕末期における宮津の酌取女については、曽根ひろみ『娼婦と近世社会』(吉川弘文館、2003年)を参照されたい。

 

1.近世京都の遊廓

1)17世紀~18世紀前半

 近世における京都市中唯一の公認遊廓である島原遊廓は、豊臣秀吉期の二条柳町、徳川家康期の六条三筋町(六条柳町)を経て、寛永17年(1640)に西新屋敷へ傾城町が移転することで成立した。寛永19年(1642)に出された「寛永傾城法度」では、傾城(遊女)を京中に出すことを禁止している。なお、すでに元和3年(1617)には、六条柳町以外での傾城商売は禁止されていた(今西2007、『京都町触集成』別巻2)。
 一方、祇園などには、17世紀後半には茶屋町と茶立女の存在が確認できる。すなわち、寛文10年(1670)の町触では、傾城町(島原遊廓)以外での遊女商売禁止を確認した上で、清水、祇園、八坂、北野門前町の4か所の茶屋には、かねて「御定めの通り」茶立女1人ずつ差し置くことを、引き続き許すとしている(『京都町触集成』別巻2)。
こうした茶屋町・茶立女の存在によって、島原は、早くからその衰退傾向が窺われる。島原の遊女人数のピークは、元禄~正徳期(17世紀末~18世初め)と言われ、早くも享保期(1716~1735)には急速に減少した(今西2007)。

2)18世紀後半

 茶屋町の隆盛もあってか、宝暦元年(1751)には、茶屋営業の取り締まりに関する21か条が出される(『京都町触集成』第2巻)。こうしたなか、宝暦11年(1761)11月、島原に「洛中其外茶屋惣年寄」が命じられることになった(同第3巻)。その結果、京中の茶屋は島原に「株料」を支払うことになったと言う(ただし、町触には見当たらず)。これは、営業が低迷した島原の利害に沿って、公認遊廓である島原の特権として茶屋への「支配」を行うもので、「差配体制」と呼ばれている。
 しかし、18世紀末の寛政改革の時代には、重要な変化が現れる。寛政2年(1790)には茶屋における隠売女の取り締まりが行われたが、一転して、同年11月には祇園町・同新地、二条新地、七条新地、北野上七軒の四か所に、遊女商売が認められるに至った(『京都町触集成』第7巻)。許可されたのは1か所20軒ずつの遊女屋経営で、1軒につき15人の遊女を置くことが認められた。その期限は5年(「京都府下遊廓由緒」)とされ、遊女1人につき5匁の口銭を島原に納入することとしたとされる(今西2007)。こうした京都における統制策は、島原による差配体制の下であったとはいえ、寛政改革のさなかに傾城町以外での遊女商売が初めて公認されたのは異例というべきものであり、三都の中でも京都の特異性を際立たせるものである。

3)19世紀

 19世紀に入り、茶屋町の地位はさらに強まる。文化10年(1813)2月、町奉行所は「京中茶屋株の全面許可」を実施した(今西2007、『京都町触集成』第9巻)。
老中水野忠邦が主導した天保改革では、風俗取り締まり政策の一環として、江戸では岡場所の全面撤去が命じられ(東京都の項参照)、大坂でも「三ヶ所」(道頓堀・安治川・曽根崎新地)を除くすべての黙認遊所で売春営業が禁止された(大阪府の項参照)。京都でも、基本的には同様で、寛政以来、遊女屋営業を一部認められてきた茶屋町での営業が再禁止される。すなわち、天保13年(1842)8月、町奉行所は、島原以外の遊女商売、隠売女をあらためて一切禁止し、島原以外の遊所は商売替え、もしくは島原へ移転するよう命じた(『京都町触集成』第11巻)。
 しかし、天保改革が挫折すると、京都でも嘉永期に入り、島原以外の遊所が復活する。具体的には、嘉永4年(1851)12月、京都所司代が「京都潤助」という名目で、ふたたび四か所(祇園町・同新地、二条新地、北野、七条新地)での遊女商売を公認した(今西2007、「京都府下遊廓由緒」、『京都町触集成』第12巻)。さらに、安政6年(1859)6月には、先斗町、五番町、宮川町、五条橋下などが、先に再公認された二条新地・北野・七条新地の「出稼」という名目で、遊女商売を新たに追加公認された(今西2007、『京都町触集成』12巻)。
 こうして、京都の茶屋町は、天保改革による全面禁止の時期を経ながらも、その公認の範囲は広がり、江戸のような新吉原の「仮宅」営業という形式を通じた遊所の実質的復活(東京都の項参照)ではなく、名実ともに公認遊廓の拡大という形を取って、茶屋町の統制上の地位が上昇するに至った。こうした幕末期の状況は、大坂と類似しているが、大坂の場合、あくまでも泊茶屋・茶屋営業の名目を取り、公認遊廓は新町1か所に引き続き限定されていた点を考慮すると(大阪府の項参照)、京都における遊廓統制の推移は、大坂とも、異なっていた。
 なお、徳川慶喜が大政奉還を申し出た慶応3年(1867)10月、京都所司代は島原以外の各遊所から年3000両を上納させる条件で、公認営業の期間を無期限にしたという(今西2007、ただし、町触では確認できない)。
 そして、慶応3年から翌4年(=明治元年)における「王政復古」と維新政権の成立、戊辰戦争を経た明治3年10月、京都府は、傾城町による他遊所の支配、あるいは出店・出稼などの名目で他遊所の遊女屋営業を認め、島原を通じて取り締まってきた体制(差配体制)を廃止するに至った。その際、京都府は、市中に前年から編成が命じられていた町組ごとに茶屋・遊女屋会社を結成するよう命じたのである(『京都町触集成』第13巻)。こうして、近世後期に成立した京都特有の島原を通じた茶屋統制の仕組みである「差配体制」は終焉を迎えた。これが、実質的に、京都における近世的な遊廓統制の終了であったと言えよう。

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図 1868(慶応4)年「京町御絵図細見大成」(竹原好兵衛版)に見える祇園周辺
矢守一彦・大塚隆『日本の古地図10京都 幕末維新』(講談社、1977年)より。右に祇園社、中央に「ぎをん丁」とあるのは現在の四条通か。四条通以南は、大部分が建仁寺の領地として描かれている。花見小路をはじめとした小路は存在していない。

 

2.近代京都の遊廓

1)明治初年の遊廓統制

①差配体制廃止と「抱え・自分働き併存体制」

 前章の最後に触れた明治3年(1870)閏10月の京都府の布令は、差配体制を廃止した上で、①今後は、各遊所が属するそれぞれの町組ごとに、茶屋・遊女屋らが会社を結成し、取り締まりの規則をもうけて伺い出ることを命じるとともに、②これまで諸遊所の茶屋・遊女屋渡世の者へ傾城町(島原)から鑑札を渡してきたのを廃止して、町組ごとに茶屋・遊女屋の名前帳を同月20日までに提出させ、あらためて鑑札を(京都府から)下げ渡す、とした。寛政期の4か所遊女屋商売公認以降、進行してきた公認遊所一ヶ所原則の破綻を名実ともに確認し、決定づけたものがこの布令であったと言えよう。ここでは、茶屋・遊女屋の区別は存在するものの、傾城町支配の枠がなくなることで、実質的な両者の線引きは意味を失う方向で推移することになったと思われる。
 さらに、明治4年11月には、遊女・芸者・茶屋に療病院費用の助成を申し付ける布令が出された。これは、黴毒対策を主眼とした療病院設立にあたり、小菅県の建議にも言及しつつ、黴毒の伝播の根源は遊所だと断定、開院後は「十ノ八九分」が黴毒治療になるとの想定に立って、遊所の者たちに病院費用を負担させる正当性を主張した。遊女・芸者・茶屋にそれぞれ会社を結ばせ、窮民授産所の費用助成を行わせようとした明治3年閏10月の仕法を廃止し、新たな仕法による療病院費助成を命じた。すなわち、同月に示された「療病院助費遊女・芸者冥加銭割」には、次のような内容が規定された。

・1人一昼夜の花代20分の1の額を毎日で積み立て、月末に出銭すること。
・遊女・芸者1人ずつに「健康保護の鑑札」を渡し、毎週受ける医師の検査で病気が発見された場合は鑑札を引き揚げ、働きは停止する。
・「健康保護の印鑑」を所持しない者は遊女・芸者の働きを禁止する。
・従来「店」と称し遊女・芸者を抱え置いていた業者には軒数の制限があったが、今後、軒数制限は廃止し、免許の遊所で遊女・芸者を抱えての営業、あるいは(遊女屋や芸者の)自分働きをしたい者は、願い出、鑑札を受け取った上で営業するのは自由である。抱えられている者は、抱え主から、自分働きの者は自ら冥加銭を納入すること。
・冥加銭は、その町組の町役が取り集め、(京都府へ)納入すること。

 この布令は、療病院の経営費にあてる遊女・芸者の冥加銭について規定し、遊女・芸者個人に健康保護鑑札の受領と毎週の検査受検を義務づけたものである。しかも、遊女・芸者抱えの業者の軒数限定(=株仲間としての排他的特権)を否定し、参入自由としたのにくわえ、「自分働き」(芸者に限らず遊女も)をも容認したもので、翌年の芸娼妓解放令に先んじて遊女の独立営業を可能にした重大な布告と言えよう。明治4年11月から、次に見る5年10月の芸娼妓解放令布告までの間、これまでどおりの遊女屋抱えと、新たな「自分働き」の遊女が併存する特異な体制が一時的に採られたことになる。他の府県に例を見ないこの体制は、「抱・自分働併存体制」とでも言いうるものである。

②京都における芸娼妓解放令

 明治5年10月、京都府にも太政官第295号(芸娼妓解放令)が布達された。京都府知事であった長谷信篤は、長文の知事告諭を発した。そこでは、人間の「自主」「自由」の権を高唱した上で、他人の自由を妨げる人身売買は「恐るべき恥事」と糾弾、年季奉公や不通養女を名目とした人身売買を「野蛮の悪俗」「不開の陋習」と激しく批判し、アフリカの黒人奴隷問題やイギリスによる奴隷売買禁止にも言及した上で、外国交際が進む時世に人身売買の悪習が存在することは「国恥」だとし、速やかにこの「野蛮の陋習」「非道の渡世」を改めさせ、「外国の侮」を防ぐべきと宣言した。その一方で、遊女の身代金については、本人の借財として漸次返済させる方法を立てるとし、府が積極的にその弁済に協力するかのような文言が盛り込まれている。また、末尾の但書では「人民保護」を職責とする府庁は遊女屋らの「家産を耗損」させ失業に追い込むようなことはしない、と殊更に付け加えている。また、ほぼ同時に出された、解放遊女の身請・借財立替などを奨励する布達でも、従来、遊女・芸妓の身請けは「放蕩淫行のためにする事」とされてきたが、解放の趣旨をふまえ「自分働の者」の借財を一時立て替えて復籍させたり、一家を興させたりするのは憚りなく行え、自分働をする者も人の妻妾となり歌舞音曲を渡世とするのはかまわない、と達した。
 その上で府は、同月、21か条にわたり、遊女・芸者の解放と自分働き、席貸渡世について規定した規則を布達した。まず1~16条目では、遊女・芸者など年季奉公人の解放の具体的措置と、解放後の遊女・芸者渡世についての出願、業態、居住場所、検黴受検、納税などについて規定した。ここで注目されるのは、(a)楼主・仲間による人身拘束を継続させる志向性が強いことである。身代金の「即金返済は勿論」とし、それが不可能な場合も年賦返済を明言しており、芸娼妓解放の趣旨に反する内容と言え、北海道の函館支庁の例(北海道の項参照)を念頭に置くと、こうした規定は、太政官によって禁止された可能性もある。また遊女・芸者の居住場所についても、免許地以外は不可と当初から規定しており、これも人身拘束的色彩が強い。他方で、これら条文からは、(b)家族・親族による稼業強制は強く否定しようとする志向性も窺える。すなわち、父母や兄姉が稼業を強いることを禁じ(2条但書)、楼主などの実娘などについても真意の確認をぬかりなく求め(6条)、7条目でも、再度、前条までの条文全体が「本人真意」を前提としたものであり、他人が強いてやらせた場合は連印者も含め罰すると強調するなど、「真意」の確認を徹底し、さらに10条目でも遊女・芸者の稼業のみで家の生計を立てる事態をも禁止して、家の事情で遊女・芸者稼業が強いられる状況にも細心の注意を払っている。上記の(a)(b)は、一見矛盾するが、表裏の関係にあると見られる。つまり楼主や仲間による全体としての拘束を温存するためには、「自分働き」を始める者の「本人真意」を徹底して担保する必要があったのではなかろうか。同様の構図は、形態こそ違うが奈良県の規則にも見られる(奈良県の項参照)。
 他方、17~21条目は、旧来の遊女屋・茶屋営業を禁止し、「席貸」という業体で再出発すべきことを規定した。その際、遊女屋・茶屋の区別は営業許可(業体把握)の上では無くなったことも重要であろう(旧来の遊女屋営業免許地、茶屋免許地を区別せず席貸営業免許地に指定したことを意味する)。
 なお、明治6年11月に京都府が作成した「遊所記事」によると、明治5年の芸娼妓解放令発令前後の時点における営業免許地は、島原、祇園町・八坂新地、二条新地、北野(上七軒・下ノ森)、七条新地、先斗町、内野(四番町・五番町)、宮川町の8か所であった。
 以上の芸娼妓解放令に関わって京都府が発した布令類には、他府県には見られない特徴があり、京都市中の遊廓社会のありようとの関係についての検討が今後の研究課題として重要であろう。

2)祇園の遊所女紅場

 芸娼妓解放令が布達された明治5年10月、下京第十五区は、京都府知事に、婦女職工引立会社の設立を出願した(以下、松田2013による)。同区は祇園新地を抱える町組であったが、出願の中心となったのは、茶屋「一力」の主人でもある区長の杉浦治郎右衛門であった。婦女職工引立会社は、当初は、芸娼妓解放令の趣旨をふまえ、解放された娼妓たちに「正業」に就くための授産を行うことを目的とした施設であった。同年11月、京都府は会社の設立を許可し、各町組の娼妓・芸妓の納税額の半分を、その運営費にあてることとした。6年2月には、島原遊廓を含む下京第十六区に、3月には祇園を含む下京第十五区に、それぞれ婦女職工引立会社が設立された。婦女職工引立会社の名称は、明治9年に遊所女紅場(にょこうば)と変更されるが、当初、会社で行われたのは授産であり、歌舞音曲は一切教えていなかった。
 杉浦らを代表とする下京第十五区は、会社の設立にあたり、祇園町に隣接する建仁寺の旧所有地(明治4年の寺社領上知によって官有地化されていた)の払い下げを京都府に出願し、1万4175坪の払い下げが認められた。また同寺の旧清住院など4つの塔頭の境内地、六波羅蜜寺の末寺2寺の境内地も下京十五区に払い下げられた。明治6年には第二回京都博覧会の都踊(みやこおどり)会場として旧清住院に歌舞練場がもうけられ、四条通以南には花見小路・南園小路・初音小路・青柳小路が整備され、その後、女紅場の製茶所や養蚕場のほか、借家32戸も建設され、明治14年には女紅場も新築された。明治33年時点で借家は92戸まで増え、同年の財団法人八坂女紅場設立申請書に付された寄付財産目録によると、女紅場が所有する建家に祇園甲部の貸座敷・小方業者の営業地も含まれていた。こうして、八坂女紅場(明治14年、祇園北部「膳所裏」の営業者の分離・独立に伴い改称)は、遊廓地の土地を所有・経営する主体に成長したのである。
 明治19年7月、京都府は、五業取締規則を公布し、京都府内の貸座敷業免許地は、町組を通じた統制から、各免許地にもうけられた同業組合による統制に再編された。五業とは、貸座敷、屋形、小方、娼妓、紹介業の5つであった。祇園では、八坂女紅場に所属する組合を「祇園新地五業組合甲部」と呼び、旧膳所裏の美磨女紅場に所属する組合を「祇園新地五業組合乙部」と称することとなった。

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図 明治6年(1873)年の四条通以南周辺
『京都新聞』(明治6年)第74号、下京出版社、6頁(京都府立総合資料館所蔵)より。
「祇園町」とあるのは四条通か。「女工場」および、分局として製茶所・養蚕所・「歌舞伎場」が書きこまれている。明治3年の建仁寺境内図と対照すると、同寺境内の「藪地」だった四条以南の土地が開発されたことがわかる。

 

3)明治後半以降の展開

 先に触れた明治19年の五業取締規則にもとづく京都府の遊廓統制は、明治33年(1900)の内務省令第44号「娼妓取締規則」公布まで続いた。33年、娼妓取締規則を受けて出された京都府令第100号「貸座敷取締規則」によって、それまでの子方営業は貸座敷営業と見なすようになり、新たに貸座敷営業者・芸紹介業者・娼妓の三区分にもとづいた統制が行われるようになった。規則に掲載された貸座敷営業免許地は、上七軒、五番町、先斗町、祇園新地、島原、宮川町、下河原、七条新地のほか、伏見町の墨染・恵美須町・中書島、橋本、庵我村、宮津万年新地・新浜、舞鶴朝代町の計16か所であった。
 なお、これを受けて祇園甲部でも、五業組合規約を改正したが、「五業」にもとづく取り締まり体制に変化はなかった。それによると、五業組合は所属する営業者の営業方法、区域内の営業者が納める税金の徴収、娼妓の検黴、そして共有財産の管理などを行う組織と規定されていた。ここでは、八坂女紅場は五業組合の構成機関の一つとされ、組合に所属する芸娼妓の教育を司ると定義されている。祇園甲部のすべての芸娼妓は、女紅場への入所が義務づけられた。なお、当時の教科は、初等普通学、茶道・生花および女礼式、裁縫・手工、歌舞音曲などとされ、初等教育や歌舞音曲が盛り込まれていた。八坂女紅場は、この段階で芸娼妓の授産というよりは、普通教育と芸娼妓の再生産や技芸修得を主眼とした施設に性格が変化しつつあったと言えよう。
 また規約では、地所の所有者名義を、組合ではなく、八坂女紅場と明記している。しかも、この名義が八坂女紅場の経費維持のために付されたものであり、八坂女紅場の所有地は何人にも分配することができない「不分財産」だと定義している。組合員の資格を持つ者はこの土地の管理に関わる権利を有するという条項もあり、八坂女紅場の所有地は、組合に所属する営業者によって共同管理されていたことになる。当時、八坂女紅場の運営は場長と30名の協議員からなる協議員会に任されていたため、八坂女紅場の「不分財産」の管理方針は、この協議員会によって議決された。場長は男性営業者に限られていたが、協議員については女性の営業者から公選されている。
 明治28年(1898)の民法施行にともない、不動産の所有権の概念が定められると、組合は内務省に対して八坂女紅場の財団法人化を申請した。その目的は、法人格を獲得することで、土地所有主体としての地位を確立することにあった。この申請は、建仁寺による八坂女紅場の所有地返還申請と、祇園新地乙部の営業者による土地共有権の確認訴訟の和解を経て、明治35年(1902)3月29日に認可された。八坂女紅場は法人格を獲得し、財団法人京都八坂女紅場となった。なお、法人登記に前後して、土地所有権保存登記申請と建物所有権保存登記申請が行われている(京都府庁文書)。
 アジア・太平洋戦争を経た昭和26年(1951)、私立学校法の施行にともない財団法人京都八坂女紅場は解散し、学校法人八坂女紅場学園に再編され、現在に至っている。

 以上のように、八坂女紅場は、現代に至るまで、祇園甲部の土地を所有する法人であり続ける特異な存在であり、こうした現象は、京都固有のものである。明治以降の京都における遊廓統制の展開として注目されるのは、①京都市街地では、明治三~五年に島原の差配体制、遊女屋の抱えが相次いで廃され、町組(学区)が娼妓・芸妓を把握し、同時に女紅場を設置する主体となった点、②当初は解放に伴う芸娼妓の授産施設として出発したはずの女紅場が、建仁寺の上地された境内地などの払い下げを受けて、土地経営に着手すると、やがて当初の授産施設としての性格は失われ、遊廓地の土地所有・経営主体に変容していくなど、独自の展開をたどった点である。
 「五業」という業態を規定しての取締規則制定など、他府県に例を見ない明治前期における京都府の遊廓統制は、今後、さらに検討が必要であろう。

 

(佐賀 朝・松田有紀子)

参考文献

(1) 京都府立総合資料館編『京都府百年の資料 四 社会編』(京都府、1972年)
(2) 京都町触研究会編『京都町触集成』各巻(岩波書店、1983~89年)
(3) 京都市編『史料 京都の歴史10東山区』(平凡社、1987年)
(4) 曽根ひろみ『娼婦と近世社会』(吉川弘文館、2003年)
(5) 今西一『遊女の社会史―島原・吉原の歴史から植民地「公娼」制まで』(有志舎、2007年)
(6) 加藤政洋『京の花街ものがたり』(角川学芸出版、2009年)
(7) 杉森哲也「島原―京都の遊廓社会」(佐賀朝・吉田伸之編『シリーズ遊廓社会1三都と地方都市』吉川弘文館、2013年)
(8) 松田有紀子「祇園―京都の遊所女紅場」(佐賀朝・吉田伸之編『シリーズ遊廓社会2近世から近代へ』吉川弘文館、2014年)