福島県所在の遊廓の沿革と概要

福島県内の近世期の遊所の多くは、奥州街道をはじめとした諸街道の宿場であった。設置時期はほとんどが不詳だが、八丁目宿・本宮宿など近世前期から飯盛女が存在した宿場もある。現段階では、福島・二本松・白河・三春藩領・幕領における宿場で遊所が確認された。明治以降の貸座敷営業地は、昭和初期段階で27ヶ所存在した。いずれも旧宿場に集中し、大正期まで所在地に変化はほとんどなく、昭和以降は徐々に衰退していった。

 

ここでは、福島県内に所在した遊廓・遊所について、1近世、2明治以降に時期区分して各時期の遊廓・遊所の概要を説明する。これに加え、「B 詳細情報」として①触・布達年表、②遊廓関係文献・論文リストを作成した。また、参考文献は文中の()内に文献名を明記したが、「B 詳細情報」②遊廓関係文献・論文リストに記載してあるので参照されたい。
「日本遊廓一覧」(上村行彰著『日本遊里史』春陽堂、1929年〔藤森書店復刻、1982年〕巻末附録、第一「日本全国遊廓一」より)には、福島県所在の遊廓は27ヶ所記載されている。内訳をみると、県西部の会津地方では町北村・東山村・喜多方町・坂下町の4ヶ所(旧会津藩領)、県中部の中通りでは福島市・瀬上町・庭坂村・松川村・飯坂町・桑折町・藤田町・梁川町・保原町・二本松町・本宮町・郡山町・須賀川町・白河町・矢吹町・三春町・小野新町(旧福島・二本松・白川・三春藩領・幕領など)の18ヶ所、県東部の浜通りでは平町・湯本村・中村町・原町・小高町(旧磐城平・相馬中村藩領・幕領)の5ヶ所である。さしあたり、1近世では、近世期の遊所について領主ごとに概観し、2明治以降では、各地の遊廓の沿革や貸座敷軒数・娼妓人数などについて述べる。

 

1、近世
 
同県中央には南北に奥州街道が縦貫し、東西には会津街道・米沢街道・磐城街道などが走っていた。近世期、これらの諸街道では飯盛女を置いた宿場が多く確認され、また複数の温泉場にも湯女が置かれ遊所となっていた。 

1)福島藩領
 福島宿は奥州街道の宿場であり、福島城下北南町に飯盛女(絹機織女)の設置が許可されていたという(『福島沿革誌』)。安永4年(1775)に福島藩が幕府に福島宿への食売女設置を出願し許可されたという経緯をもつ(「諸家秘聞集」〔「C主要史料」史料2〕)。 

2)二本松藩領
 奥州街道の宿場である八丁目宿(松川)・二本松宿・本宮宿・郡山宿に飯盛女が置かれていた。八丁目宿は天保4年(1833)以降二本松藩領に繰り入れられるが、同地が米沢藩領であった寛文4年(1664)以前から「娼家」が存在したと伝えられている(『相生集』)。本宮宿・郡山宿には元禄13年(1700)にはすでに女持旅籠屋・食売女が存在し、本宮宿ではさらに寛永18年(1641)まで遡るとの史料もある(『本宮町史 第5巻』〔「C主要史料」史料1〕)。なお、天保改革前の諸国遊所における遊女の値段を列記した番付では、郡山宿は「行司」に位置づけられている(『守貞謾稿 三』)。文政期、本宮宿・郡山宿では引立修法と称する旅籠屋の再建政策が実行され、飯盛女の人数も増加した(武林弘恵「近世後期の都市振興政策と飯盛女」)。当時、郡山宿の女持(旅籠屋・客屋・無商売女持の3類型)は37軒、飯盛女が124人、子供が42人存在した。藩は、飯盛女のことを売春婦と認識しつつも公言せずに飯盛女として公認したが、彼女らを二本松城下へ連れ出し止宿させること、家中の者が飯盛女を酒食の相手にすることは禁止していた(武林弘恵「郡山宿の旅籠屋」)。天保3年(1832)には、二本松宿でも本町・松岡町に飯盛女設置が藩から許可されることになった(『二本松市史 第6巻』〔「C主要史料」史料4〕)。 

3)白河藩領
 奥州街道の宿場である須賀川宿・白河宿・矢吹宿に飯盛女が置かれていたが、許可の年代は不詳。ただし、白河宿では元文5年(1740)にはすでに食売女が置かれていることを示す史料があり(『白河市史 第6巻』)、文政10年(1827)に奥州街道を通過した小宮山風軒によれば、白河城下の大手前の町に遊女屋が多くあったという(『浴陸奥温泉記』)。矢吹宿では、嘉永4年(1851)には飯森奉公人は女1人につき400文と定められ、女諸運上が宿内非常時の備金にあてられた(『矢吹町史 第3巻』)。須賀川宿でも安政2(1855)、溜金を設けて「女逃去」などに備える飯盛女の取締規定が定められた。なお慶応3年(1867)、本町に30人前後の女と8人の子供、中町には35人前後の女と10人前後の子供、北町には13人前後の女と6人前後の子供がいた(『須賀川市史 第3巻』)。 

4)三春藩領
 温泉場の庚申坂に飯盛売女躰の者が存在し、天保12年(1841)に彼女らの入湯が許可されているが、風俗に関わるとして弘化3年に再び禁止される。慶応3年(1867)には宿屋1軒につき他方女3人迄の設置が許可されている(『三春町史 第9巻』)。 

5)その他幕領など
 県内でも特に信夫郡・伊達郡は領主の変遷が激しかった。桑折宿・藤田宿の旅籠屋では機織女・飯売女を置いていたが、近在村々からは郷中の者を泊めるなどの迷惑により、文化文政期には両宿で、嘉永期には再度藤田宿で訴訟が起きている(〔「C主要史料」史料5、6〕)。また、文政11年(1828)、藤田宿では半田銀山の買石働の者共の二夜泊めや、払方不足になった者の着類等を預かる旅籠屋は商売禁止と定められた(『桑折町史 第6巻』『国見町史 第2巻』ほか)。

 

2、明治以降
 明治12年(1879)、福島県内には貸座敷264軒、娼妓961人、芸妓193人が存在し、明治21~29年(1888-1986)までの9年間は貸座敷190軒前後、娼妓900人前後が存在した。地域的には県内全域に展開したものの、旧宿場に集中していた。その後、大正期にかけて貸座敷営業地の変化はほとんどなく、大正4年(1915)には貸座敷115軒、娼妓680人が存在した。同年における娼妓の出身府県は、福島県が圧倒的に多く約半数、次に山形・宮城県が多く、新潟県がそれに次いだ。また、遊興人員は年間24万人を数えた。大正末期には貸座敷102軒、娼妓513人と若干減少した(『福島県警察史 第1巻』)。昭和に入ると貸座敷業は次第に衰微の傾向を辿り、娼妓数も減少する一方で、酌婦は増加の傾向を示した。日中戦争勃発後には、業者および関係者の増加抑制・員数逓減が行われ、太平洋戦争に入ってからはさらに廓清の度を深めていった(『福島県警察史 第2巻』)。 

1)福島町
 福島町には近世後期より飯盛女が置かれていたが、芸娼妓「解放」令を受けて明治6年(1873)1月には139人の飯盛女(出身地内訳は新潟県95人・宮城県37人・柏崎県1人・磐前件2人・山形県2人・宇都宮県1人・東京府1人)が「解放」された(『福島市史 第4巻』)。 

2)郡山町
 明治4年(1871)、白河県が白河・白坂・矢吹・須賀川・郡山の五宿駅の旅籠屋軒数・飯盛女人数の調査を行った結果、計144軒(うち平旅籠屋19軒)・425人(うち14歳以上378人)が存在していた(〔「C主要史料」史料7〕)。同年8月8日、白河県は「仮病院」を設立するために14歳以上の飯盛女1人につき1日銭100文ずつ上納させて費用に充てることとした(〔「C主要史料」史料8〕)。郡山宿では8月以降の5ヶ月で合計金152両1分1朱銭850文を上納している(柳田和久「宿場本陣と飯盛奉公人」)。なお、明治15年(1882)頃には白河・白坂・矢吹・須賀川・郡山の性病の娼妓のための入院治療所が須賀川病院内に設置された(『須賀川市史 第4巻』)。明治5年(1872)「解放」令時、郡山宿には旅籠屋38軒・飯盛女126人が存在し(草野喜久『史料で見る女たちの近世―南奥二本松領・守山領を中心に―』)、同6年(1873)2月~5月までに54人が親元へ引き取られた(柳田前掲論文)。明治30年代からは遊廓移転問題が起こり本町と大町では誘致運動も起きたが、同34年(1901)には赤木にまとまって移転、町名も「相生町」と命名された(『郡山市史 第4巻』)。 

3)二本松町
 二本松には天保期から飯盛女が置かれていたが、明治35年(1902)に大原山麓に移転、大原遊廓と称された。移転時には業者は7軒であったが、その後数を減らして2軒となり、終戦により廃止となった(紺野庫治編著『写真集 二本松』)。 

4)須賀川町
 近世期より宿場の飯盛女を置いていた須賀川では、明治14年(1881)には貸座敷21軒・娼妓82人が存在したが、同30年(1897)には貸座敷7軒・娼妓48人と減少した。これは須賀川町が鉄道の開通もあって宿場町としての性格を失っていったことによる。そして同35年(1902)には3軒だけが指定地の十日山へ移転した(『須賀川市史 第4巻』)。 

5)三春町
 温泉場で、近世後期にはすでに遊興場的性格を有していた三春庚申坂では、明治20年頃より移転問題が起こっていたが、同29年(1896)5月には「新地」として弓町に移転し、元の庚申坂は「古庚申坂」、弓町は「新庚申坂」と区別された。新庚申坂が最も栄えたのは大正3年頃だったといい、娼妓数は古庚申坂時代とそう変わらず36人(大正3年〔1914〕9月)であった(『三春町史 第4巻』)。 

6)湯本村
 温泉場であり、明治4年(1871)7月の調査によると「湯女飯盛」が差し置かれた由緒は不明確ながら、200年以前(寛文期頃)より湯坪1つにつき飯盛女2人が許可されていたと伝えられる(〔「C主要史料」史料9〕)。幕末期の史料では、湯女・飯売・芸子奉公人の存在が確認される。「解放」令後には旅籠屋一同が磐前県に対し、飯盛・芸妓渡世存続を出願した(〔「C主要史料」史料10〕)。明治22年(1889)10月の「娼芸妓玉調」の帳簿によると、玉数の行司勘定日は10日・20日・31日の月3回であった。同33年(1900)8月には、遊廓地の新規地所候補地として大字湯本字吹谷の売買契約が取り交わされている(『史料 常磐湯本温泉史』)。 

(文責:武林弘恵)