山形県所在の遊廓の沿革と概要

 

置賜地域

◎米沢
1、米沢城下
 
城下町の整備は、1548年(天文17)伊達晴宗藩主以降なされ、1591年(天正19)伊達政宗転封までの間に主要町人地が形成された。伊達転封以降、城下は衰退。1598年(慶長3)蒲生郷安が藩主となるが、上杉景勝の会津転封により上杉氏の支配となり、直江兼続が城代を勤めた。1601年(慶長6)関ヶ原の戦後処理により上杉景勝が米沢城主となって以降270年間上杉氏の居城となった。減封(30万石→15万石)・冷害などにより藩財政は深刻を極め、農村への貢租負担が増大し、逃亡・欠落百姓、間引き・身売りが深刻化していった。1763年(明和元)8代藩主重定は幕府に藩土返上の意を伝えた。1767年(明和4)家督を継いだ9代藩主上杉治憲(鷹山)(1822年(文政5)死去)は、農村復興、殖産興業政策、藩校興譲館の再興などに取り組み、10・11代藩主の後見となって米沢藩を再建した。人口も一端10万人にまで落ち込んだものの、18世紀後半には17世紀初頭の13万人まで回復した。
 1869年(明治2)米沢新田藩と合併し、1872年(明治4)米沢県、同年11月置賜県となり、1876年(明治9)山形県に合併された。(参照:『米沢市史』通史編3、1993年 / 『日本の地誌』4東北、2008年、朝倉書店) 

2、米沢の遊廓
・近世~明治初期
 
近世米沢地方の遊廓について、米沢近郷の赤湯には、湯治客や出羽三山の登拝者、近村の鉱夫、馬市の馬商たち相手の藩公認の遊女(「鍋」と称する湯女)が存在した。1794年(寛政6)6月、馬市が赤湯から米沢城下馬苦労町に移され開催された折、馬商が赤湯の「鍋」3人を連れ出し風紀が乱れたという事件が起きた。元々「廃娼論」を唱えていた米沢藩家臣莅戸善政はこの機に「鍋」廃止の建議をおこなった。江戸家老たちは「存娼論」を唱えたが、藩主上杉治憲(鷹山)の決断により寛政7年12月に廃止となった。1802年(享和2)には赤湯遊女の一斉取締りにより6人の遊女が摘発された。(『米沢市史』3)近世米沢城下の遊廓について詳細は不明だが、寛政期に遊女が禁止されたことにより、公認の遊廓は存在しなかったと思われる。寛政の禁止の影響で米沢には維新まで「遊女の跡を見ず」と言われた。(『莅(のぞ)戸(き)太華翁』(杉原謙、1898年)の「在予帖」解題 / 原島―1977年)
 しかし、1872年(明治5)4月25日に出された「米沢大町札ノ辻掲示」には、「自今庁下旧藩以来引続き旅籠屋渡世ノ者ヲ除ノ外、芸妓酌人ノ類抱置キ右ヲ以テ利ヲ営ミ候儀、堅ク令禁止候事」とあり、芸妓酌人を抱えて利益を得ることは禁止するが、旧藩以来営業している旅籠屋渡世はそれを禁じられなかった。また同年10月25日に、置賜県は太政官の「芸娼妓解放令」を受けて「飯盛芸者規則」を布達し、「従来飯盛抱置候旅籠屋改テ貸座敷ト定メ」、新規の願出は不可とした。(『山形県史』資料編1「置賜県歴史」)これまで存在した飯盛女付き旅籠屋は「貸座敷」と改名された。旧藩時代にも飯盛女付き旅籠屋が存在し容認されていたこと、さらに解放令以降も彼らの特権が守られたことがわかる。
 翌年1873年(明治6)12月29日には、解放令の「一切解放」の趣旨を再度確認し、違法と思われる内容を例に挙げ(娼妓芸妓の「当人真意出願」としながら実際は年季奉公、無免許宿屋にて「娼婦ヲ寄留」、無鑑札の娼妓の転売、従来飯盛渡世不可の宿駅温泉場などでの営業)、大蔵省よりこれらを処分する様にとの達があったこと(詳細不明)、東京府の規則に倣って置賜県内の規則を定めることを心得として出している。同日に「貸座敷規則」「娼妓規則」「芸妓規則」(『山形県史』資料編1「置賜県歴史」)を布達し、8つの貸座敷指定地を定めるとともに、各指定地での許可軒数を定めた。(米沢柳町中、小出10軒、宮内10軒、小松8軒、荒砥8軒、赤湯5軒、小野川5軒、小国町3軒)米澤柳町以外での営業者については、特別に1874年(明治7)3月まで従来の場所での営業を許可した。移転への猶予を与えなければならなかったほど、多くの貸座敷業者が存在したと考えられる。
 「飯盛」の名称を廃し「娼妓」と改め、「飯盛」は廃止するが廃業の上「娼妓渡世志願ノ者」は認められ、貸座敷への娼妓・芸妓の寄留も当然のごとく許可されたという、解放令とはかけ離れた対処をしたものだった。
 加藤晴美氏によると(加藤―2015年)、確認できる明治初期米沢の貸座敷業者は、旧米沢藩領内で飯盛旅籠屋に類する稼業に従事した者はおらず、維新後に士族などが貸座敷業に参入した新興経営者がほとんどだったという指摘がなされている。
 1874年(明治7)の置賜県戸口調査では、娼妓133人、芸妓27人、翌年では娼妓149人、芸妓41人とあり、増加傾向にあり(『山形県史』資料編1「置賜県歴史」)、その後米沢市内には指定地の柳町以外にも多くの貸座敷が存在した。(『米沢市史』4、1995年)
 1880年(明治13)時期の所在が判明する貸座敷は13軒あり、粡町3軒、大町・越後番匠町・立町・東町に各2軒、川井小路町・今町・柳町に各1軒で、越後番匠町(武家地)を除いて全て旧町人町に存在した。(加藤―2015年)

・福田遊廓
 
貸座敷免許指定地であった米沢の柳町は、柳町以外にも多くの貸座敷が存在し、危惧した有識者達の間で貸座敷を1ヶ所にまとめようとする運動が起こった。旧藩主上杉鷹山の「廃娼論」を持ち出し、川井小路の東を候補地とした。以降の詳細は不明だが、1886年(明治19)大字福田の荒蕪地に決め、貸座敷を集めた。「是れ米沢集娼妓制度の始なり」と旧版『米澤市史』(1944年)に見える。1904年(明治37)には、貸座敷11軒、娼妓51軒、1906年(明治39)の遊客数は月平均1,650人。
 1943年(昭和18)には娼妓も軍需皇女にかり出され、妓楼は玉ノ木町や小国町の大手軍需工場に動員された臨時工員の寮として使われ、福田遊廓は閉鎖となった。(すべて『米沢市史』4より)
 米沢市相生町。米沢織の産地。1886年(M19)に宿場町から移転。僅か5軒から1917年(T6)5月22日大火当時には11軒。その後復興して8軒。娼妓は約35人。山形県内か少数の福島県の女性。店は写真制。娼妓は全部居稼ぎ制、時間制もやれば回し制もやっている。丸喜楼・甘水楼・新芳楼・昌平楼・朝日楼・武蔵楼・住の江楼・東陽楼など。(『全国遊廓案内』(1930年)(抄録))

 

参考文献
・『米沢市史』通史編3、1993年
・『山形県史』資料編1明治初期上、1960年
・『日本の地誌』4東北、2008年、朝倉書店
・原島陽一「明治十年代における米沢の貸座敷営業史料」、1977年
・加藤晴美「明治前期米沢に於ける遊興空間の形成と貸座敷の存立―貸座敷営業と娼妓の身売りを中心として―」『歴史地理学』57-2(274)、2015年

 

 

 

村山地域
上山
1、上山城下
 
1622年(元和8)最上氏改易により、松平重忠(譜代、4万石)が入部、その後1626年(寛永3)蒲生忠知(外様)、翌年には山形藩の城代による管理となり、1628年に土岐氏が入部して以降65年間続いた。城下町の整備はこの時に行われた。一時幕領となるが、1692年(元禄5)金森頼時(外様)の支配となり、1697年から藤井松平氏(譜代、3万石)の支配が幕末まで続いた。18世紀半ばには藩財政が窮乏化し農村の荒廃は増大、1747年には惣百姓一揆が起こった。天明・寛政年間の藩政改革による政争を経て、幕末には中老金子与三郎による改革が行われた。1871年(明治4)上山県、のち山形県となる。(『日本大百科全書』)

2、上山の遊廓
 
上山領の城下、温泉町、羽州街道の宿場町。1737年(元文2)、旅籠屋宿主33人が、旅籠屋発展のため飯盛女を置くことを願い出ている。(『鶴(つる)脛(はぎ)温泉記』)その後、1801年(享和元)風俗統制により禁止されたが、1808年(文化5)に復活。上山藩は飯盛女を置くことを許可する条件として、伝馬人足(代金)を提供させた。(Cf.『日本歴史地名大系』:羽州街道は出羽国13大名の参勤や巡見使の通路であり、米沢街道は置賜領への商荷道路として賑った。上山宿の人馬役は50人・50疋であるが、常設は25人・25疋であった。寄人馬と称する助郷役は三宿一体持で、領内33ヵ村が三宿を負担したが、寛政(1798―1801)以後は上山一六ヵ村・楢下一七ヵ村と定められた。助郷役は村の大きな負担となり、助郷人馬請負制や飯盛女馬代金制などもとっている。)
 上山の城下町は、表通りの二日町・十日町が商人町、裏町が諸職人の町。純粋な町場は十日町(150戸)、二日町(75戸)により構成され、町端は農家が半分を占めていた。1873年(明治6)・1876年(明治9)の上山の戸籍から、城下町の構成・特色が復元できる。貸席渡世17軒、旅篭商5軒、木賃宿渡世5軒はほぼ十日町に集中し、「飯盛渡世」が62人、1軒の貸座敷で6、7人を抱えるところもあったという。1881年(明治14)『上山戸別図』(岡村如風)によれば、旅籠屋16軒、貸座敷13軒、十日町・二日町を中心に茶屋渡世10軒とあり、街道沿いの宿場町の様子がわかる。(『山形県史』近世下、1987年)
 『全国遊廓案内』(1930年)には、上山町字新町。温泉町であり松平氏の城下で相当繁昌。最初国道筋にあったものが明治30年頃新町に集合して廓となり、楼数4軒、娼妓約20人位で、湯治客や近在の者がかよったとある。居稼ぎ制。新湯が町の中に沸き、湯治客に人気。毎年、盆踊りが遊廓の中で開催され、多くの客と入り乱れて踊るのが見物。妓楼は、新吉楼、新吉楼支店、舞鶴楼、柏木楼、瀧本楼等。(『全国遊廓案内』(1930年)より)

 

 

◎山形
1、山形城下
 
戦国大名最上義光により慶長年間に城下町山形の原形が作られた。57万石。最上氏改易後は、頻繁な領主交替により藩勢・城郭・武家地が衰退、縮小していった。18世紀中頃、代官支配時代(明和年間)には、武家屋敷が田畑へ転用され、武家地が衰退した。秋元氏時代(18世紀後半~19世前半)から幕末の水野氏(5万石)の時には、武家屋敷はほとんど無く、三の丸に家中長屋があった。町人町(七日町・十日町)は近江商人などの血筋の紅花商が繁栄し、商業都市化していった。維新後、藩庁に新県庁が置かれた。1896年(明治29)には陸軍歩兵32連隊が設置された。(参照:『日本の地誌』4東北、2008年、朝倉書店)

2、山形の遊廓
 
六日町内には百姓町・穢多下町・傾城町があった。傾城町は現在の六日町交番所~極楽寺辺り。秋元時代には娼家が軒を並べ、幕末頃も村山から山形に来る道者が通ったという。傾城町は1884年(明治17)に小姓町に統合されるまで繁昌した。(『山形市史』中巻近世、1987年)
 1872年(明治5)9月18日に、山形県(合併以前)は管内町村の旅籠屋・茶等で従来許可されている者以外が、「売女体之者」を置いて商売をさせることは厳禁であるが、商売繁盛の地域には軒数と年季を定め、鑑札所持と税金の賦課を定めて許可をするとした。同年10月19日には、太政官の解放令を受けて、男女の年季奉公人には証文を返し、相談の上1年間の年季に改める様通達した。もし当人や父兄が帰郷を望むならば、抱主は拒んではならず、貸借訴訟も取り上げないとした。一年間の年季を認めることは、解放令の趣旨にならった一切解放ではなかったと言える。10月24日には、「遊女芸者之類解放」させることは勿論だが、本人の願いで「飯盛」を望む場合は、11月12日~17日に願書を提出し、望まない者は11月10日までに抱主から届け出ることとした。 1874年(明治7)当時、芸妓は9人、娼妓337人。

 

『全国遊廓案内』(1930年)では、山形市小姓町、県庁・旅団・高等学校もある県下第一の都会であり、宿場から遊廓になったのは明治17年、明治27年の大火で全て焼失したが、たちまち復興とある。19軒。娼妓は191人。一部秋田県人の外はすべて山形県の女性。居稼ぎ。妓楼は、新よし楼・青柳楼・丸亀楼・新青柳楼・亀よし楼・磯長和楼・一力楼・花よし楼・万亀楼・奥田楼・松井楼・吉野楼・金万楼・日の出楼・花村支店・大金楼・花村楼・中条楼等。(『全国遊廓案内』(1930年)より)

 

庄内地域

◎温海(湯温海)
 
庄内藩の温泉町。1803年(享和3)に七日町・加茂・酒田以外に遊女を置くことが禁止された。そのため隠し遊女が横行し、1850年(嘉永5)には、湯温海村の隠し遊女取締りの命令が出された。幕末頃、湯温海村では遊女を「粟蒔(あわまき)」と称し、遊女を置くことを禁じられたため、農作業の粟蒔女としておいたという。(『山形県史』近世下、1987年)1872年解放令後の対応は、「酒田」の項目と同じ。1874年(明治7)に酒田県の貸座敷指定地となった。
 『全国遊廓案内』(1930年)では、西田川郡湯温海村字温海。温海駅で下車、東へ20丁。鉄道が敷かれる前は、非常に不便な場所につき世間にあまり知られていなかったとある。妓楼は3軒、娼妓は約20人位。居稼ぎ制。竹岡楼・角恵比楼・福本楼。

 

 

◎湯田川
 
田川湯村。近世には田川村と呼ばれることが多く、また湯田川村とも通称された。1955年に鶴岡市に合併した際、大字名を湯田川と改めた。庄内藩の統制を受け、藩主の入湯もあった。小国街道の馬継場で、湯田川温泉の南広場で馬市が立てられ、他国からも多くの馬喰が集まった。『東遊雑記』に「1軒に10人、15人ずつ売女あり。…売女を国風にてヲハ(おば)と称す。」とあり。湯女によって潤ってきた村だが、1803年(享和3)の遊女禁止の対象に湯田川の湯女も含められており、舟を廃止されては生活が成り立たなくなると「湯女御免」の嘆願をしているが、結果は不明。
『全国遊廓案内』(1930年)では、散娼制から集娼制になったのは明治42年の大火以後のことで、湯治客は近郊の人々が多いとある。貸座敷5軒、娼妓は35人。山形県下の女性。居稼ぎ。桜花楼・場照楼・新清楼・幸至楼・藤澤楼など。

 

 

◎鶴岡
 
庄内地域の「川南」。最上川の川南に位置し、最上氏改易後は、酒井家の城下町として発展。(参照:『日本の地誌』4東北、2008年、朝倉書店)
 江戸時代には、鶴岡城下の七日町に旅籠屋17軒が集まっており、株で譲り渡される仕組みになっていた。村山・最上方面からの商人や出羽三山、特に湯殿山に参詣する道者が鶴岡に宿泊していた。18世紀末、19世紀初頭には、道者の中には教護寺に宿泊する者も多く、教護寺に泊まりきれなかった道者を関係する名子・法類の寺に泊めさせたため、鶴岡の旅籠屋から苦情が出るなどの問題が発生していた。また、旅籠屋17軒の中でも、馴染みの旅籠屋に泊まる「定附」を扱い「遊女」をおかずに清浄にして道者を接待使用と考える旅籠屋と、「定附」を廃止し、馴染み客も含めてすべての客を順番に旅籠屋に宿泊させる「惣廻り附」のみとして、「遊女」を置いて商人や客を独占しようとする考えの旅籠屋との2つに対立した。
 文化年間、七日町には17軒旅籠屋以外に隠遊女屋が増加したため、1818年(文政元)隠遊女屋10人に対し、「下旅籠屋」として許可し、翌年には「下旅籠屋」が合計23軒となった。裏家にはさらに27~28軒の隠遊女屋があり、これらは裏町の名子が多かったという。七日町・八間町に「下旅籠屋」が存在し、それらは藩公認のものだった。許可なしに「遊女」を置く者が跡を絶たなかった。(『鶴岡市史』上、1962年)
 鶴岡に止宿する者は、越後・佐渡から来る者が多く、鶴岡大庄屋氏家文書に越後道者に関する記録が多くある。(『山形県史』―1987年)
 『全国遊廓案内』(1930年)では、貸座敷数6軒、娼妓約30人とある。

 

 

◎酒田
 
庄内地域の「川北」。最上川河口の港町として栄え、本間家などの地主・商人の民間人が活躍した。平泉藤原氏の遺臣三十六人衆を中心に自治組織を形成。1672年(寛文12)川村瑞軒が御米置場を設置し、年貢米の江戸回米制を整備した。1976年(昭和51)の大火災により市の中心部が焼失した。(参照:『日本の地誌』4東北、2008年、朝倉書店)
 『全国遊廓案内』(1930年):(酒田は北前船により栄えた港町)米沢置賜方面から最上川の水運による、産物の一大集積地。大地主本間氏の根拠地。今町、船場町、高野浜の3ヶ所に遊廓があったが、明治27年の大震災後に全てを合併。貸座敷31軒、娼妓は約100人。秋田県・山形県の女性が多い。
 1872年(明治5)の解放令後の1874年12月、酒田県令三島通庸は、娼妓・芸妓の営業場所を10ヶ所指定した。(酒田今町・同船場町・同新町・鶴岡七日町・同八間町・田川湯村・温海湯村・湯ノ浜村・加茂村・大山村)貸座敷営業規則では、解放令の趣旨(年季なし)を守り、鑑札を受け毎月鑑札料を納めること、娼妓・芸妓規則では、15歳以上という年齢制限を設け、鑑札および毎月の鑑札料、貸座敷のみでの営業などを規定した。(『温海町史』)

 

 

◎新庄
『全国遊廓案内』(1930年)では、新庄町字万場町、馬場遊廓とあり、貸座敷7軒、娼妓28人。千年楼・常盤楼・立花楼・伊勢屋・松川楼・恵比良楼。