『女性史学』 33号 掲載 西山真由美氏・山川均氏の原稿に関する批判的論評メモ

    佐賀 朝

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『女性史学』 33号 掲載 西山真由美氏・山川均氏の原稿に関する批判的論評メモ(佐賀朝)

 

はじめに

・本メモでは、女性史総合研究会『女性史学』33号に掲載された西山真由美・山川均「近代奈良の遊廓と性売買―新聞報道にみるその諸相―」という原稿(論文と見做すには問題が多いため、以下「本原稿」と呼ぶ)について、批判的に論評し、その問題点を明らかにする。

 

1.学術論文に求められる要件を欠く原稿であること

①論文全体の視角・方法と研究史との関係、文章の構成が論理的とは言いがたく、学術論文として求められる体系性や有機的構成を欠いていること

・「はじめに」は、課題と視角がきっちり設定・説明されておらず、どのような対象をどの期間にわたり、どのような視角で論じるのか、そのためにどのような論文の構成を取るのか、全体を通じて何を明らかにするのか、などが説明されておらず、学術論文としての形式要件に欠ける。

・原稿のタイトルには「新聞報道にみるその諸相」とあるが、本原稿を通じて何を論じようとしているのかは不明確であり、文字どおり奈良県の明治初年から1920年代に至る時期における遊廓の「諸相」を紹介しているにすぎず、後述するように、基底には一つの主張点が見え隠れするが、学術的に有意味な一貫性を持つ論点に沿って論述された原稿とは言いがたい。

・タイトルに窺えるように、新聞資料を重視することが、著者らが強調する特徴だと見受けられるが、実際に新聞資料を用いているのは一部(「」だけ)であり羊頭狗肉である。

・また新聞資料を用いる意図やその研究史上の意味についても説明がない。
*そもそも研究史との関係で新聞資料を主に取り上げる意図は何か?

まず「従前の研究において歴史資料として活用されることが少なかった新聞報道」(p61)という記述は、日本近代史研究において、むしろ新聞資料は基本的な史料として広く用いられており、事実誤認でなければ、誤解を生じさせる文章である。

・その上で、近代遊廓史の研究史上において、一次史料が重視されていることには相応の経緯があるのだが、それをふまえた説明はなく、なぜ今、ことさらに新聞資料を重視するという主張が出てくるのか、その文脈と意図がきちんと説明されていないのも問題である。

・もちろん、新聞資料からも、その特性に応じて様々なことが読み取れるのは当たり前で、評者もそれを否定するものではない。しかし、問題は、それぞれの資料の特性に応じて何を引き出すかである。一次史料からは新聞資料には現れようのない経営内部の実態が明らかになるし、芸娼妓の日記や手紙、周旋業者の史料などと併用することで、芸娼妓に対する搾取の実態は、こうした史料を用いてこそ具体的に明らかになる。

ここ20年ほどで進められてきた近代遊廓社会史研究は、近世史分野で展開されてきた都市社会構造の一環として遊廓の社会構造を分析し、そこにジェンダーの視角も導入しながら進められてきた研究の成果と方法をふまえて、それを従来、新聞資料など二次史料に依拠して外面的に論じる傾向が強かった近現代史の分野にも導入することで革新してきた。特に、一次史料を用いて、妓楼経営の内部的実態や遊廓の開発と社会=空間構造、遊廓営業をめぐる多様な集団の利害構造を分析してきたのである。さらに近年は、こうした一次史料に基づく内部構造分析を、遊廓社会の底辺で性売を強いられた女性たちの境遇や、彼女たちの主体性とそれをめぐる業者たちとの非対称な緊張関係の実態分析にも広げ、彼女たちの心性にも分け入って解明しつつある。著者らが批判している人見佐知子氏の研究は、その代表的な成果である(人見2022a・b・cほか)。

その意味で、本原稿は、①近年の遊廓社会史研究の流れに抗して、根拠も不明なまま、一面的に新聞資料の重要性を主張するとともに、②ジェンダー視点を導入して女性たちの主体性の行方を跡づけ、彼女たちの営為を丁寧かつ慎重に明らかにしようとしてきた研究にも正面から対抗するなど、二重の意味で研究史を逆行させようとする意味を孕んでいるように見受けられる(この点は本原稿の内容の検討とも関連させて後述する)。

・他方で、著者らが「多用」したと肯定的に語る新聞資料には、二次史料につきまとう重大な歪みも当然ながらある。それは、著者らが用いている新聞報道からは、1920年代の公娼制度改革の成果を行政・警察側や妓楼側の目線から、誇大に喧伝する論調を有したことが明らかであり、それを、そのまま実態と評価することはできないという点に端的に表れている。

→一次史料に基づく経営内部の分析は、このように外面的な二次史料では実像が掴みにくい問題について、歴史を生きた当事者である主体に即して、リアルな実態を捉えようとする意図のもとで行われているのであって、二次史料の歪みを一次史料で正すのが本来の基本であり、その逆ではない。本原稿の焦点である1920年代の公娼制度改革の評価についても、二次史料である新聞の記載や評価の妥当性を、一次史料から判明する内部的実態を通じて修正するのが、実態分析の基本であるべきだろう。なお、このことは二次史料の論調から、公娼制度問題をめぐり、どのような反応や主張・評価があったかを分析することの固有の意義や、こうした面での新聞資料の意義を否定するものではありえず、そうした点とここでの議論は両立しうるのである。

②不正確で稚拙な表現や用語使用が随所に見られること

・「考察の対象を奈良県内に措定」(p61)→「奈良県に設定
・「設置する場合は木辻の合意が必要」(p64)→「…木辻の同意が必要」
・「…気分を発揮して斬時盛況を呈してゐる」(p67)→「漸次」か「暫時」の間違いだろう。
・「県議会」(p68、76、77ほか)→「県会」(戦前の府県制の下での議会は、「府議会」や「県議会」ではなく府会・県会。これは常識。)
・「太政官公布」→「太政官布告」(p68)
・「近代公娼制度構成する上での「三要素」」→「近代公娼制度構成する三要素」」(p70 ℓ19)
・「…強制は行わないこと、…医師の治療を受けること」→「…治療を受けさせること」(p70 ℓ31)
・「交渉制度」→「公娼制度」(p71 「図3」中の 大正13年6月の記載)
・「娼論」→「娼論」(p75 ℓ2・3)
・「…一般楼主は日が予防に苦しんでいる。」(p75 ℓ24 引用文中)
・「…蔑視が生じる要因を内在する」→「…要因を内包するor内在させている」(p77 ℓ5)
・p78 ℓ3の註7)では、近世の性売買が行われた場所を「遊所」と呼び、近代以降を「遊廓」と呼ぶ、としているが、奇妙な用語法である。遊廓社会史研究では通常、公認の性売買地域を近世・近代を問わず「(公認)遊廓」と呼び、非公認ないしは黙認の性売買地域を「遊所」と呼ぶ。そのため近世において遊所であった地域が近代になって公認され、遊廓となる、という例も多い。この点、研究史を不正確に理解している疑いが強い。

→これらは、いずれも初歩的な日本語表現の間違いや、日本近代史・遊廓史に関する基礎的知識の欠如に基づくものであり、本来、完成原稿を投稿する義務のある著者らが、学術論文に通常求められる水準やマナーを欠いていることを示している。当人たちの問題もさることながら、こうした原稿を採用・掲載した『女性史学』の編集委員会や査読者の側の責任も問われるべきではなかろうか。

③初歩的な史料の誤読や事実誤認、疑問符がつく記述があること
a.」①冒頭の「賦金」という語の奈良県における初出例に関する記述

・当該初出例が明治6年だったと本原稿が主張している点に関する註33の記述には以下のようにある。

明治6年(1873)司法省諸布達綴 明治4年4月には9年11「娼妓芸妓雇入之資本金ハ賦金を看做云々」とある。

(1) まず日本語がおかしく、引用記載として意味が取れない。冒頭部分の「明治6年」はどこから来た言葉か、原稿だけ見た読者には理解不能だが、これは該当簿冊の完結年月日が明治6年7月20日とされているため、その年次記載が不適切な形で文章に入り込んだものであろう。著者らが引用している奈良県立図書情報館所蔵の奈良県庁文書の該当簿冊は「諸布達綴 明治四年ヨリ同九年十一月」(請求記号:1-M4-15f)が正しい標題であり、表紙には「司法省」とは書かれていない。また「明治4年4月には、同9年11月」という文章は、この簿冊の表紙に記載された件名収録対象期間を指していることが原史料を見ると確認できる(実際には上述のように明治6年7月20日までの件名しか収録されておらず、本簿冊の表紙記載にほぼ対応する明治6年7月以降、明治9年8月までの件名は「明治八年中 管内布達書」(請求記号:1-M6-7f)という別の簿冊に収録されていると考えられ、同簿冊が本来は、上記の「諸布達綴」の後半部分だったと見られる)。いずれにしても、著者らの説明は、学術論文における典拠の引用記述として著しく不正確であり、文章も稚拙である。なお、本原稿の本文p67には、当該史料について「(主要史料)」と記載しており、遊廓・遊所研究データベース「主要史料」を引用元としているが、データベースには該当史料は掲載しておらず、これも間違いである。

(2) またこの「諸布達綴」は、堺県の文書として作製されたものであり、同県が明治9年に大和国を編入する以前の文書であるため、当該件名は、次に見るように、実際には太政官と司法省から堺県宛の布告や達を県内に布達したものなので、元来、奈良県における「賦金」という用語の使用例にはなり得ない。つまり、そもそも主張したい点と素材がミスマッチなのである。

(3) さらに、「娼妓芸妓〔等脱〕雇入之資本金ハ賦(ママ)金を(ママ)看做」という引用には、重大な誤読と誤認がある。

→焦点となる「賦金」という用語は、著者らの単純な読み間違いで、原史料には「贓金」(ぞうきん)と記述されている。この言葉は、明治5年10月9日に出された司法省達第22号の一節として出てくる表現として有名なものである。すなわち、その第一条には「人身を売買するは古来、禁制のところ、年期奉公等種々の名目をもってその実、売買同様の所業に至るにつき、娼妓・芸妓雇入の資本金は見做す、故に右より苦情を唱うる者は、取糺の上、その金の全額を取り上ぐべき事」とあり、これは近代遊廓研究者であれば常識に属する(人見2015、横山2011、飯島・佐賀2017などを参照)。

→原史料を確認したところ、当該件名は、堺県が芸娼妓解放令にあたる太政官295号と司法省達第22号を県内に布達したものであり、その文面にも「娼妓・芸妓等雇入之資本金ハ看做ス」とある。また、堺県令であった税所篤の署名は、明治5年10月となっている。なお、本原稿が引用する「娼妓芸妓雇入之資本金ハ賦金を看做云々」は、件名目録の文面によったものと見られる。

→以上から、本史料は「賦金」の用例にも、その初出にもなり得ないばかりか、奈良県の史料でさえないものであり、これに言及した本文と註33は、二重三重に誤った認識と史料の誤読に基づく記述であり、削除が必要であろう。これは註とは言え、学術論文の記述としてきわめて問題である。

b.芸娼妓解放令に関する記述

・p68における明治5年10月の芸娼妓解放令(太政官第295号)と司法省達第22号に関する記述において「「前借金無効の司法省達」によって、芸娼妓の前借金は法令上無効とされた。」と記しているが、これは不正確である。

→司法省達第22号は、太政官第295号が芸娼妓の一切解放を命じて、それに伴う借金貸借訴訟は一切取り上げないと宣言したのをうけて、①養女名目による人身売買も同様、禁じるとともに、②解放をめぐる旧遊女屋らの故障申し立てには、その財産没収で応えると述べ、身代金の返済不要を宣言した上で、さらに③芸娼妓たち本人が背負っている借財についても返済不要としたものである。③には但書もあり、10月2日以降の借財は有効だとも述べている(佐賀2023参照)。

⇒したがって、「芸娼妓の前借金は法令上無効」というのは不正確で誤解を生む表現であり、このかんの芸娼妓解放令研究の成果をふまえた記述とは言いがたい。きわめて大ざっぱで不正確な説明と言うべきである。

c.明治6年12月の「貸座敷渡世規則」に関する記述と文献参照の方法

・p70で著者らは「明治6年(1873)12月公布の「貸座敷渡世規則」」に言及し、これを「中央警察組織である警保寮が発したこの規則は典範となり、奈良県でも採用された」(奈良県警察史編集委員会『奈良県警察史 明治・大正編』の出典指示あり)としている。この記述自体は、出典を比較的忠実に参照したものであるが、明治6年12月に政府が貸座敷渡世規則を布告することはありえず、実際には東京府が同年同月10日に布告した布令第145号「貸座敷渡世規則・娼妓規則・芸妓規則」(人見2015のp202~203に全文引用あり)のことであろう。内務省警保寮が、この東京府の規則を各府県に通達していたとすれば、その事実は重要ではあるが、この規則をあたかも政府機関が発したかのように説明する奈良県警察史の記述は間違いであり、明治5~6年の遊廓統制をめぐる政府諸省と東京府との折衝過程が明らかとなっている現在の研究水準(人見2015のほか、大日方1992も参照)からすれば、引用に際して修正や注記が必要な記述だと言える。この点も、本原稿が、近代遊廓研究史上の基本的な知識を欠いた形で記述されていることを示す証拠の一つと言えよう。

⇒ちなみに、奈良県警察史の芸娼妓解放令と司法省達22号に関する説明は、現在の水準に照らしてもそれほど不正確なものではなく、この点については、著者らは、むしろ同書の説明をきちんと読むべきだったのではないか。つまり、全体として、著者らには、先行研究や参考文献の記述を主体的・客観的な判断により取捨し、踏襲すべきものは踏襲し、修正すべきものは修正するという、学術論文の記述に際して求められる基本的な態度や手続きが不足していると言えよう。

 

2.芸娼妓の稼ぎの配分の評価をめぐって

 *すでに、本原稿の問題点は明らかであるが、本原稿の最大の問題点は、娼妓の稼ぎを、その廃業時に妓楼と娼妓
  がどのように配分したかをめぐる「」の記述である。

・同章で、著者らは奈良県大和郡山町・洞泉寺遊廓の川本楼における娼妓の前借金や稼高と廃業時の精算状況について考察し、先行研究である人見佐知子2022aが、川本楼が娼妓に支払った総額は「小遣い銭を加えても、せいぜい稼高の一割程度」に過ぎないと指摘した点を批判し、1920年代半ばの公娼制度改革の結果、娼妓らの待遇が改善される一方、妓楼の負担は増大し、娼妓の稼高に対する妓楼側負担の割合は1割を越えるとし、人見氏の評価には「再検討の余地がある」と主張した(p73)。

・問題点
(1) 最大の疑問は、3名・4件の娼妓の廃業時の精算金の内訳を図示したp72の図4(グラフ)において、著者らが前借金や追借金を娼妓の「本人取り分」に算入している点である。

・まず「前借金」というのは、その言葉通り、芸娼妓が稼業に入る時点で親などが受け取った借金を本人の借財として背負わせ、稼業を通じて返済させるものであり、常識的に考えて芸娼妓の取り分にはなり得ない。実態としても、前借金は芸娼妓本人には渡されないため、その意味でも取り分ではない。したがって、著者らは、このように常識に反した主張が成り立つのか、その根拠を示す義務がある。しかし、何ら説明はなく、この点で本原稿には、まず重大な説明不足がある。

・その上で、著者らがこうした判断に立つ理由を推測すると、次に見るように、著者らは年期制契約に基づく娼妓が、年期を満了し廃業をした場合の精算時に、上記の前借金の返済が免除されることに注目し、精算時に、結果として負債の返済義務が解除されることによって娼妓の親が受け取ったことになる金銭を(娼妓本人が手にする訳ではないが)、親を含めた娼妓側に収納される金銭と見做して「本人取り分」としたものと想定される。

→しかし、上記のような判断は、以下の点で問題がある。

・まず娼妓の精算事例を検討する際に、各娼妓が年期満了による廃業なのか、立金廃業(そのほとんどは次の妓楼への転売などに伴う廃業で、転出先の妓楼経営者が本人の負債の残金を、転出前の妓楼に弁済する形の廃業)なのか、によって精算形態は変わるため、著者らにはそれを説明する義務がある。

→しかし、著者らはそれを示してもいないし、区別しようとした形跡も窺えない。

・実際には、著者らが上げた4事例の契約と廃業の形式は、人見2022aによると以下の通りである。

①三好の事例は、年期満了による廃業(表4のNo.1)

②君子の事例は、立金廃業(表5のNo.6)

③奴の1回目の事例は、年期満了後の稼業延長(表5のNo.2)

④奴の2回目の事例は、立金廃業(表5のNo.2)

・まず重要なのは、年期制の契約であっても年期満了前に廃業する場合は、立金廃業となり、前借金は借金(負債)として日割り計算される点である(人見2022aのp39~44)。つまり、年期制の娼妓であっても、年期満了でない限りは、前借金は、返済を要する負債であり続けるのである。

→実際、②の君子や④の奴の2回目は、立金廃業であるため、廃業時に未済の前借金・追借金は稼高から差し引かれる形で精算されている。そのため、これらの金銭は負債なのであって、彼女たちの取り分にはなりえない。したがって本原稿の図4のうち、②④については明白な誤認に基づくことになる。なお、②④の事例は、立金廃業だったにもかかわらず、賞与や積立金が精算時に支給されている特殊なケース(何らかの理由で妓楼主が恣意的判断により「優遇」した事例)である点も要注意である(人見2022a)。

・以上から、先に推定した著者らの想定が成り立つのは、年期満了廃業の時だけであり、①の三好の事例がそれにあたるとしても、こうしたケースはどれくらいあったのか、という点が、次に問題になる。

→人見2022aに記載の事例を見ると(p39~41の表4・5)、1927~45年の年期満了廃業が10例(人見氏の最新の研究(人見2024)ではやや増えて15例)、1919~45年の立金廃業が46例(1927年以降39例)であり、確認できる川本楼の事例中で年期満了廃業は全体の3割以下にとどまる。また年期満了の事例は、1920年代後半から30年代前半に偏っており、30年代後半以降は、一部を除き、ほとんどが立金廃業となる。したがって、年期満了廃業の事例が存在することを根拠として、前借金を一般的に娼妓側の取り分とすることや、そうした事例が増えて待遇が改善されたなどと主張することは、実態面からも無理があると言えよう。

*なお、人見氏が2022aで表4に挙げた10例のうち稼ぎ高が判明する4例は以下の通りである。

  No. 源氏名 前借金a  年期    稼ぎ高b     給与金c   c/b (a+c)/b
・No.1 三好  1,500円 5年   11,201円20銭  306円01銭  2.7%    16.1%
・No.2 桃太郎 1,800円 5年    9,728円80銭  807円03銭  8.3%  26.8%
・No.3 円之助 1,300円 4年    8,984円10銭  931円69銭 10.4%  24.8%
・No.7 勝栄    750円 2.5年      3,137円65銭   143円38銭  4.6%  28.5%

※ (a+c)/bは、あえて前借金も「取り分」とみなして稼高に対する割合を示したものである。

・では、年期制における年期満了廃業時に返済を免除された前借金については、本人取り分と見做せるのか、と言えば、ここにも原理的な問題がある。年期満了でない廃業時には、前借金はあくまでも負債として処理される事実をふまえれば、この措置は「年期満了した際にだけ特別に返済を免除する」という、ある種の特約だと評価するのが妥当だと考えられる。

この特約どおりの契約満了が達成された場合も(されない場合も)、稼業中の本人の稼ぎはすべて妓楼主の所得となる。したがって、妓楼から見れば、前借金とは、それを親に支払い、娼妓が稼業に入る時点で、年期中の人身拘束と彼女たちの「労働」の果実を全て占有する権利を、妓楼主が買った代価なのであって、これを稼業中に発生した稼ぎ高に含まれる娼妓取り分として扱い、それを差し引く形でその配分割合を議論するのは根本的に間違っていると思われる。年期制契約における前借金は、むしろ明治5年以前に一般的であった近世の遊女奉公契約における身代金に近いもの―彼女たちの人身の対価―と見るべきで「本人取り分」とするのは、やはり無理があると言えよう。

→もちろん、妓楼主が営業のコスト計算をする際には、芸娼妓の人身を購入する際の投資コスト(前借金支出)と、その後の彼女たちの稼ぎから得た利潤を差し引きすることはありえるし、実際にそうしたコスト計算や利潤の計算もなされたと思われる。しかし、これは、娼妓たちを、金銭的利益を生むモノと見做す貸座敷業者の目線に立った計算=妓楼主目線での物事の評価であり、現代の研究者による客観的・学術的な歴史事象の評価とは見做しがたいものだと言えよう。

(2) ④の奴の2回目の稼業期間には「娼妓取り分」がひじょうに大きな割合(67%)になっていると著者らは主張し、これには「娼妓の待遇改善に関する制度的整備が大きく影響しているだろう」としているが、これも問題である。奴の2回目の契約(実際には③の契約の延長)は稼業期間が38か月と短く、稼高も3320円余りと小さかったから、契約当初の1100円の前借金を「本人取り分」に算入すると、その割合は当然、ひじょうに高くなる。しかし、ここには2つの問題がある。まず、同じ素材を検討している山川2019の図8によると、稼高3320円は、奴の2回目の稼業期間39か月(本原稿では、奴の2回目の稼業期間を1925年2月~28年5月とし、38か月としているが、1925年2月~28年5月であれば39か月である。山川2019の図8によると、稼業期間は1925年2月3日から1928年4月30日なので、39か月とするのがより正確であろう)のうち、後半期の21か月分の稼高である。すなわち、ここには前半期18か月分の稼高が含まれていない。そのため、本原稿の「計算」方法に従うと「本人取り分」が大きく見えているだけである。また、この④は立金廃業の事例であるため、そもそも前借金を奴の取り分と見做すことは二重計上となるため全く不可能である。したがって、これを公娼制度改革の成果であるかのように説明するのは、全くの事実誤認だと言えよう。

(3) 著者らは、4事例のうち3事例(①②③)で、稼業中に娼妓が妓楼主から借りた金銭である追借金・「追々借金」を「本人取り分」に算入しているが、追借金は、年期制の年期満了廃業時にも返済を免除されず負債として精算されているため、これを「本人取り分」とするのも明白な誤認である。

(4) 著者らは、4事例すべてにおいて、推計した「生活費」のほか「小遣い」「髪結他」も「本人取り分」に算入している。「小遣い」については、公娼制度改革後に本人の稼ぎ高に応じて妓楼が支給することになったものであり、従来にはなかった新たな妓楼主負担と見做す根拠はある。しかし、「生活費」については、本来的に貸座敷における稼業契約を結ぶ際に、妓楼主負担として織り込まれるか、歩合制の下で本人取り分から差し引かれるか、そうでない部分は本人の追借金などによって賄われるものだと考えられる。そのため、一概にこれを本人取り分とすることはできないように思われる。また、「髪結他」も公娼制度改革後のルール化によって新たに妓楼主負担となったものではあるが、これらは本来、稼業に伴う出費であり、ルールの下で支給されたこれを一概に本人取り分とすることは、客観的評価としては疑問が残る。つまり、これらはグレーな項目だと言えよう。

→にもかかわらず、以上のすべてを「本人取り分」として計算する発想は、まさに公娼制度改革で「新たな出費」を強いられた妓楼経営者側の目線に立脚したものだと言えよう。

(5) 著者らは、4事例のすべてにおいて、遊興税額を妓楼主が娼妓に対して負担した金銭のように記載しているが、これも税金負担者が遊興をした消費者(遊客)であることを無視したもので、事実誤認である。遊興税の金額は、本来、娼妓と妓楼の「利益配分」に算入すること自体が間違いであり、ここからは金額として除くべきである。

*なお、この点に関連して、考えないといけないのは、妓楼が娼妓たちの稼業によって得ている利益は、性売買による稼ぎ高以外にも存在した点である。この点は、すでに人見2022aでも指摘されている。また加藤晴美2021(第Ⅳ章)が栃木県烏山遊廓の経営文書の検討から指摘しているように、妓楼での遊興には、直接的な性売買への支出にあたる揚代以外に、酒肴料や席料、飲食費、宴席に同席する芸娼妓への玉代などの支出が伴う。近代の遊廓においては、こうした支出は抑制され、より直接的な性の消費が比重を増す傾向にあったとはいえ、妓楼が娼妓たちの存在やその「労働」から得る利潤は、ここで著者らが「利益配分」の計算に算入している金額よりも大きいことに留意しなければならないのである。ここでも著者らは、妓楼経営者に寄り添って、小さくない利益を無視する形で「利益配分」計算を行っているのである。

*以上をふまえると、年期制契約の年期満了廃業の事例に限っても、人見2022aが述べた、妓楼が娼妓に支給した金額は多く見積もってもせいぜい1割であるとの主張は妥当であり、著者らの見積もりは、妓楼側の負担や支出を、より高く見積もる事例選択や操作を行っている疑いが強いのである。

→「」の最後に、著者らは人見氏の研究を批判して「娼妓の置かれた過酷な立場を斟酌するあまり、それ一方に偏重した視点は避けるべき」(p73)と記しているが、以上から明らかなように、本原稿は、特約の結果というべき一部事例(年期制の年期満了廃業)の存在を、実態としても、原理的にも問題のある形で拡張・一般化し、「前借金」を娼妓の取り分と見做すという恣意的な「利益配分」計算を行ったと言える。また、それだけでなく、娼妓たちの「取り分」とは明白に見なせない項目や、見做すとしてもそう見做す根拠の説明や留保が必要なグレーな項目も「総動員」して、可能な限り「本人取り分」に算入することで、実態以上に娼妓の取り分と妓楼主の負担を多く見積る議論を展開しているのである。つまり、本原稿は「妓楼主の経営的負担を過剰に斟酌するあまり、それ一方に偏重した主観的評価」を行ったものと言えよう。

*むしろ、前頁に稼高が判明する4事例について、仮に前借金を「本人取り分」と仮定した場合の割合を示したが、稼高に占める割合は3割以下で、さらに本原稿のような「計算」をして経費を「取り分」に計上したとしても、せいぜい3割内外にしかならない、という事実を著者らはどのように考えるのだろうか。つまり妓楼経営者本位のコスト計算に立った場合でも、十分な利潤がそこに生まれていることは明らかなのであり、それは貧困にあえぎ、苦界に沈まざるを得なかった女性たちに対する事実上の人身売買と搾取に基づくものだったと言わざるを得ないだろう。

⇒本原稿の主張は、論理的にも、実態に照らしても、きわめて問題があり、学術的な議論をはみ出して、歴史修正主義的な立場からなされた一面的主張と見做されても仕方ないようなものだと言えよう。

 

3.基本的なスタンスの問題

・著者らは冒頭で「筆者らは…現代人の近代遊廓に対する認識〔歴史上の闇と見る見方〕をいったん保留し、近代民衆の視線に立った上で改めて遊廓の姿を見つめ直そうと考える。」(p61)と記述している。

→「いったん保留」した上で物事を見つめ直して、果たしてどのような歴史像が導き出されるのだろうか。実際には、この「いったん保留」は、永続的な無視になっているのではないか。

・上記の記述に対応する結論めいた記述がp77の「6」の③の記述であり、そこで著者らは大正10年(1921)に料理屋等が遊興税に反対して奈良県会に提出した陳情書の内容を紹介し、そこに記された遊廓における性売買に関する「日夜辛苦したる男子が一ヶ月に一二回性的方面に心身の慰安を求るに対して税を課するが如きことは心身の慰安を暴圧するもの」との主張を引用し、「現代の倫理観から見ると到底容認できない主張」だとする一方で、以下のように述べている。

とはいえ、これが正式に県議(ママ)会に提出された陳情書であることに鑑みるならば、当時の大衆意識はこのレベルにあったものと捉えられる。われわれが近代の性売買に関して論じようとするとき、当時のマジョリティは明確に意識しておく必要があるだろう。

→「意識しておく」とはどういうことであろうか。当時の性売買をめぐるこうした認識が「公的」な場で表明可能な社会である以上、当時の女性蔑視や遊廓における人身売買や経済的・性的な搾取は、「仕方のないもの」あるいは「半ば公認されたもの」だったと言いたいのであろうか。

・「おわりに」では、さらに明確に、著者らは、従来の女性史研究には「主としてジェンダーに視点を設けた〔の視点に基づく〕」ものが多く、「搾取する楼主」「搾取される娼妓」という二元的把握や対立構造を前提とした研究が多かった、とした上で、著者らはこれらを「止揚」し「主に当時の大衆の視座を通じて当時(ママ)の性売買の実態と構造に関する考察を行うことを強く意識した」(p77)と述べている。

→「意識しておく」ということは、本来は当時の男性の多数派の性売買観の現実を、それとして認識することだと思われるが、そうした性売買観を肯定・是認することではないだろう。にもかかわらず、著者らは、そうした過去の性売買認識と現代の倫理観とを「止揚」するという表現の下で、実際には後者を相対化し、前者の認識=当時の男性多数派の認識からすれば、遊廓における性売買は、やむを得ないものだったと主張しようとしているのではなかろうか。

*上記の主張の問題点
(1) これは、長年にわたる女性史研究の成果や、その先に展開されたジェンダーの視点に基づく歴史学研究の成果を反転(暗転)させ、同時代の男性多数派の視点から搾取や矛盾・対立が不在であったかのように性売買の問題を描くものと言え、歴史修正主義と言われても仕方ないようなものである。

(2) 歴史的な事実の評価として、県会の「公的」な場でなされた陳情であることをもって、上記のような主張を当時の「マジョリティ」の認識としてよいか、という問題がある。よく知られているように、1920~30年代には、人身売買を伴う公娼制度を批判し、その廃止を要求・提案する建議や請願が、多くの府県で審議され、採択されてもいる(吉見2010、2019ほか)。こうした動きの前提には、20世紀転換前後以降の国際的な児童・婦女売買禁止の潮流があったことが知られている(小野沢2010)ほか、1910~20代には帝国議会でも公娼制度廃止をめぐる議論が活発に展開されていた(吉見2019)。旧来型のこうした公娼制度肯定論は、同時代において強い批判にさらされており、他でもない著者らが重視する、多くの府県会で議論の争点になっていたのである。したがって、そもそもこうした主張が、当時のマジョリティだったかどうか、という点から、著者らの見解は再検討が必要である。

→しかし、すでに見たように、著者らは、遊廓経営の内部的実態をめぐっても、一次史料の恣意的で操作的な扱いをもとに、妓楼内部の搾取がそれほどひどいものではなく、1920代の内務省・奈良県による「公娼制度改革」によって、着実に改善されたと評価している。こうした点をふまえると、著者らの立場は、近代公娼制度をめぐって同時代に存在した矛盾や社会問題を「止揚」する(実際には無視する)ものであり、実質的に歴史修正主義と何ら選ぶところがない主張になっていると言えよう。

⇒以上のように、本原稿は、女性史総合研究会や機関誌『女性史学』に期待される女性史研究の発展を推進するという理念に照らして、大きな疑問符が付くものである。また、それ以前に、学術論文としても多くの問題を持つものだと言わざるをえない。こうした原稿を、投稿論文として扱い掲載した同誌の編集上の判断についても、強い疑問が残ると言わざるを得ない。

 

4.結論

・以上、見てきたように、本原稿は、学術論文としての要件である適切な研究史整理や課題・視角の明示、有機的な章構成、適切な史料引用や蓋然性・妥当性のある分析・考察とその根拠の説明、無理のない立論などを欠く一方で、その基底にある主張と姿勢は意外に一貫している。

→すなわち、公娼制度改革の「成果」を実態以上に強調し、近代公娼制度による人身売買と女性抑圧の構造の問題性をできるだけ薄め、現実に存在した社会問題や矛盾を相対化して問題の不在を主張しようとしている疑いが強い。そうした志向の下で、一次史料には恣意的で操作的な考察を加えるとともに、本来、経営内部の過酷な現実を読み取るべき一次史料よりも、間接的で外面的な性格を持つ二次史料である新聞資料をこそ重視すべきであるとの主張を、根拠不十分なまま展開している点も問題である。

・したがって、本原稿は、学術論文として強い疑問符がつくだけでなく、近代日本の女性史やジェンダーの視点に立つ近代性売買・遊廓史研究のこれまでの展開やその成果をふまえず、むしろ、それに真っ向から対抗する面を持つ。これを『女性史学』に掲載したことは、女性史総合研究会や同誌に期待される役割に照らして、強い疑問を抱かせるものと言わざるをえないだろう。

→以上の問題点をふまえて、同会と同誌の編集担当者には、この原稿に学術上大きな疑問が生じている現状を真摯に受け止め、本原稿の内容やそれを掲載した判断の妥当性について、学術的な観点から再考することが必要ではないだろうか。関係者の賢察と適切な対応が求められる。

 

参考文献など

・飯島美和・佐賀朝「芸娼妓解放令後における石川県の遊所統制」『北陸都市史学会誌』22号、2017年
・大日方純夫「日本近代国家の成立と売娼問題―東京府下の動向を中心として」東京都立商科短期大学学術研究会『研究論叢』39号、1989年(のち同著『日本近代国家の成立と警察』校倉書房、1992年所収)
・小野沢あかね『近代日本社会と公娼制度―民衆史と国際関係史の視点から』吉川弘文館、2010年
・佐賀朝・吉田伸之編『シリーズ遊廓社会1 三都と地方都市』吉川弘文館、2013年
・佐賀朝・吉田伸之『シリーズ遊廓社会2 近世から近代へ』吉川弘文館、2014年
・佐賀朝「「遊廓社会」の近代化―研究史整理と一次史料の検討から」
(塚田孝・佐賀朝・上野雅由樹・渡辺健哉編『周縁的社会集団と近代』清文堂出版、2023年)
・加藤晴美『増補版 遊廓と地域社会―貸座敷・娼妓・遊客の視点から』清文堂、2022年(初版は2021年)
・人見佐知子『近代公娼制度の社会史的研究』日本経済評論社、2015年
・人見佐知子「娼妓の住み替えをめぐる一考察―娼妓の手紙から」『民俗文化』33号、2021年
・人見佐知子「娼妓と近代公娼制度―一次史料からみる娼妓の住み替えと廃業」『歴史評論』866号、2022年a
・人見佐知子「娼妓の前借金返済はなぜ困難だったのか―奈良県大和郡山市洞泉寺遊廓を事例に」『歴史科学』251号、2022年b
・人見佐知子「娼妓からみた近代日本の公娼制度―周旋業者・借金・梅毒」『民俗文化』34号、2022年c
・人見佐知子「公娼制度改革後の娼妓の廃業実態と貸座敷の収益構造―奈良県大和郡山市洞泉寺遊廓の事例から」『奈良歴史研究』95号、2024年
・山川均「又春廓川本楼、娼妓『奴』について」『女性史学』29号、2019年
・横山百合子「19世紀都市社会における地域ヘゲモニーの再編―女髪結・遊女の生存と〈解放〉をめぐって」『歴史学研究』885号、2011年
・吉見義明『日本軍「慰安婦」制度とは何か』岩波書店、2010年
・吉見義明『買春する帝国―日本軍「慰安婦」問題の基底』岩波書店、2019年