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山形県

 山形県には、昭和初期の26カ所もの貸座敷指定地が設けられていた。上杉藩領の置賜地域は、近世の一時期に藩公認の湯女「鍋」が存在したが、寛政期には禁止となり公認遊廓は存在しなかったとされる。飯盛女抱えの旅籠屋は存在したと考えられる。明治5年(1872)の「芸娼妓解放令」では「一切解放」としながらも翌年には8つの貸座敷指定地を設けた。

福岡県

 福岡県では、近世に福岡藩が公認した柳町遊廓があり、小倉藩では、港町の田野浦に遊女屋を置くことを許可した。明治5年(1872)の芸娼妓解放令の際には、福岡県は「速カニ解放」としつつも明治6年(1873)には「娼妓」を「芸者」と言い換え8カ所(福岡・博多・堅粕・芦屋・若松・宰府・湯町・甘木)の貸座敷免許地を指定した。一方、小倉県は完全に解放することとしたが、福岡県へ合併後は明治15年(1882)に田野浦が指定されたのが旧小倉県内では最初の貸座敷免許地となる。製鉄所、軍関連施設、石炭輸出港に隣接する地域に貸座敷免許地が指定され、また石炭輸出等で満州・朝鮮・台湾へ渡航しやすい地理的条件があったためか、「からゆきさん」を多く送り込んだ拠点でもあった。

茨城県

 ここでは、茨城県内に所在した遊廓・遊所について、1近世、2明治以降に時期区分して各時期の遊廓・遊所の概要を説明する。
 「日本全国遊廓一覧」(上村行彰著『日本遊里史』春陽堂、1929年〔藤森書店復刻、1982年〕巻末附録、第一「日本全国遊廓一覧」より)には、茨城県所在の遊廓が祝町(東茨城郡礒浜町字祝町)・平潟(多賀郡平潟町)・筑波(筑波郡筑波町)・取手(北相馬郡取手町)・潮来(行方郡潮来町)・横町(猿島郡古河町)・中田(猿島郡新郷村)の7ヶ所記載されている。さしあたり、1近世では、ともに水戸藩領であった祝町・潮来、棚倉藩領であった平潟について概観し、2明治以降では、大正期平潟の貸座敷移転運動について述べる。なお、順次更新の予定である。

高知県

高知県所在の遊廓の沿革と概要   近代における高知の遊所について ■概要  ここでは、主として高知市における近代の芸娼妓営業地について述べる。  大正9(1920)年刊行『高知市誌』に付属する市街図には、市の西…

岩手県

近世期の岩手県の遊廓・遊所は、盛岡藩領では盛岡城下および城下の近隣村域である津志田(いずれも現盛岡市)、陸中海岸の諸国廻船の寄港地で海上交通の要衝だった鍬ヶ崎湊(現宮古市)に存在したことが分かっている。鍬ヶ崎湊が近世前期から遊所であった一方、城下と津志田の茶屋は文化期以降幕末まで、藩からの公認と制禁を繰り返した。明治以降は盛岡と鍬ヶ崎を含め、延べ20ヶ所が貸座敷営業地に指定された。

岐阜県

 近代の岐阜県には4つの遊廓があった。金津遊廓(現岐阜市)、旭遊廓(現大垣市)、西ヶ原遊廓(現多治見市)、花岡遊廓(現高山市)である。いずれも、明治20年代に設置された遊廓である。明治5年(1872)「芸娼妓解放令」以前の岐阜県域に、公認の遊廓はなかったが、19世紀以降、宿場や城下町に飯盛女や茶汲女をおくことが許可されていた。「芸娼妓解放令」は、飯盛女や茶汲女を「解放」した。その後、遊廓の設置は認められてこなかったが、明治21年(1888)の「娼妓貸座敷取締規則」の制定により、岐阜県でも近代公娼制度が施かれることとなり、4つの遊廓が設置された。

福島県

福島県内の近世期の遊所の多くは、奥州街道をはじめとした諸街道の宿場であった。設置時期はほとんどが不詳だが、八丁目宿・本宮宿など近世前期から飯盛女が存在した宿場もある。現段階では、福島・二本松・白河・三春藩領・幕領における宿場で遊所が確認された。明治以降の貸座敷営業地は、昭和初期段階で27ヶ所存在した。いずれも旧宿場に集中し、大正期まで所在地に変化はほとんどなく、昭和以降は徐々に衰退していった。

京都府

 京都では、江戸・大坂と同様、近世初頭に唯一の公認として島原遊廓ができた。17世紀から18世紀にかけての市中東部を中心とする新地開発に伴い、北野、祇園などに茶屋町が形成され、島原は早くも18世紀前半から長期的な営業不振にあえいだ。18世紀末の寛政改革に際して、新地の4か所に島原からの出稼を名目とする遊女屋営業が免許され、島原は「茶屋年寄」として出稼地からの上前を取得した(差配体制)。差配体制は、天保改革期の一時廃止をはさみ、明治3年まで継続したが、同年の廃止で島原の優位は最終的に解体した。明治3~5年に、京都府は町組を単位とした遊廓統制を採用し、芸娼妓解放後の授産施設として設置された遊所女紅場が、祇園など、いくつかの場所で遊廓地の土地所有・経営主体に成長し、京都固有の遊廓社会が展開していくことになる。

大分県

 大分県の遊廓は、近世には港を有する温泉場の別府・浜脇と、風待ち港の下ノ江・佐賀関などからなった。ほかに生石村の生石浜(後の大分港近く)では神事の際に立つ七筋もの小屋掛けからなる市「浜の市」で遊女屋・芸子屋が許可されていた(大坂・別府・浜脇などから出店)。近代の公認遊廓は上記の別府・浜脇・下ノ江・佐賀関に生石浜近くへ新設されたかんたん遊廓を加えたものである。明治前期、温泉場では温泉宿業者が遊女・芸子を抱えて営業した。のち貸席と呼ばれる貸座敷業者が確立し組合もつくられる。明治後期から大正・昭和初期にかけては温泉場の拡大と連動的に業者は増加の一途をたどり、娼妓以外にも芸者・酌婦・やとななど様々な業態が集積した。港の遊所は近代以降、航路の変化に伴っておおむね衰微した。

山口県

 山口県の遊廓・遊所の発展は、長州藩の経済活動を支えた海運業の発達とともにあった。17世紀半ばに西回り航路が開発されて以降、赤間関・中ノ関・上ノ関などが北前船の寄港地として発展し遊廓も形成された。天保改革期に作成された『防長風土注進案』にも「茶屋」・「湯女」の存在が記されている。芸娼妓解放令の後には、解放令に則った政策がとられるとともに、瀬戸内海沿岸部5ヶ所と萩の1ヶ所において遊女渡世が許可された。